もっともっと北海道は移転しました。
これからは
もっともっと北海道 – 大好きな北海道 もっと知りたい もっと知ってほしい
でお待ちしています。
まだまだ完成には程遠い道のりですが、よろしくお願いいたします。
また、ヘリテージ~受け継ぐべきものがこちらへ移転してきました。
よろしくお願いいたします。
いろいろと試行錯誤を繰り返しており、読者の皆様には混乱させてしまって申し訳ありません。
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2007年、新潟県と佐渡市は、「佐渡金銀山遺跡」の世界文化遺産の国内暫定一覧表入りを目指し、「金と銀の島、佐渡-鉱山とその文化-」として、文化庁に提案しました。
そして2010年、佐渡金銀山は、「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。しかし、4年連続で落選。
2020年度に提出した推薦書原案は「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてきた名称を「佐渡島の金山」と変更し、内容も独自の価値を強調し、新潟県と佐渡市が推薦書原案(改訂版)を国へ提出しました。その結果、「北海道・北東北の縄文遺跡群」と競合して選ばれませんでしたが、次の有力候補になり得ると評価されました。
2021年、推薦書原案を国へ提出、国内推薦を目指すのは佐渡だけで選定が有力視されていました。しかし、韓国などが戦時中に朝鮮半島出身者らへの「強制労働」があったなどと反発しており、外務省を中心に慎重論が広がり、推薦を見送る方向で調整したものの、反発の声が大きく、2022年2月に世界文化遺産への推薦となりました。
2024年、登録の内定とはなりませんでしたが、4段階の評価のうち上から2番目の「情報照会」が勧告されました。
基本的に世界遺産としての価値は認められており、資産範囲の修正など追加の情報を求めているということです。
ちなみに、前年は「情報照会」と勧告された6件中6件が、その年の世界遺産委員会で世界文化遺産に登録されています。
登録基準(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
→<生産体制>
①徳川幕府による長期的・戦略的な鉱山経営
②民衆に育まれた鉱山由来の文化
登録基準(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
→<生産技術>
①機械化鉱山を上回る純度と世界最大級の生産量
②高い掘削・測量技術や精錬技術
①西三川砂金山 ②相川鶴子金銀山
たくさんの困難を乗り越えてここまで来ました。たとえ登録されなくても価値ある場所であることは確かですが、ここまで頑張ってきた人たちの努力や思いを考えると、やはり世界遺産に登録されることを願わずにはいられません。
5月3日は憲法記念日です。昭和21年11月3日に公布され、昭和22年5月3日に施工されました。
そもそも江戸時代までは自由や平等などという考えはなく、鎖国政策をしていた日本でしたが、江戸幕府の開国・通商路線を期に倒幕運動天皇親政体制への転換など、いわゆる明治維新により、日本は近代化への道を進めていきました。
中央集権体制が整備され、さまざまな政策が実施されました。
この政府のやり方に不満を持った士族たちは自由民権運動を始めました。これに地主や都市の商工業者のちには農民なども加わり運動は激化していきました。
これに対し政府が保安条例の制定や改進党の大隈重信を外相に入閣させることで運動は沈静化し、1889年大日本帝国憲法を制定しました。この憲法は君主権の強い欽定憲法で、権利は天皇から恩恵として与えられ、法律の範囲内でしか認められていませんでした。
第二次世界大戦に敗れた日本はポツダム宣言を受け入れ憲法改正に至りました。
その際マッカーサーが出した改正の原則が「天皇制の維持」「戦争放棄」「封建制度の廃止」でした。これをもとにマッカーサーの部下により原案がつくられ1947年5月3日、日本国憲法が施工しました。
日本国憲法では「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という3つの原則を掲げ、国民の幸福を増進し平和で文化的な国をつくることをうたっています。
国のあり方を最終的に決定する権力は国民にあり、憲法を定める権力あるいは権威が国民にあることを示します。
大日本帝国憲法では、天皇主権でしたが、日本国憲法では天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされています。
日本国憲法では、公共の福祉に反しないかぎり、国民一人ひとりの基本的人権が尊重されることを保障し、基本的人権は大きく5つに分類されます。
日本国憲法でいう自由権とは「精神的自由権」「経済的自由権」「身体的自由権」を言い、思想・良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社、表現の自由(第21条)、学問の自由(第23条)、居住・移転、職業選択の自由(第22条)、財産権の不可侵(第29条)、奴隷的拘束や苦役からの自由(第18条)、法定手続の保障(第31条)、住居の不可侵(第35条)、被疑者・被告人の権利保障(第33条、第36~39条)が明文化されています。
平等権について日本国憲法では14条1項において規定されています。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と明文化されています。
日本国憲法における社会権には「生存権」(第25条)、「教育を受ける権利」(第26条)、「勤労の権利」(第27条)、「労働基本権」(第28条)があります。
政治に参加する権利で、大きく選挙権と被選挙権があり選挙権については、15条に定められています。
基本的人権が守られるよう、人権が侵された場合その救済を求める権利のこと。請願権(第16条)、裁判を受ける権利(第32条)、国家賠償請求権(第17条)、刑事補償請求権(第40条)があります。
日本国憲法の前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあり、第9条には「戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認」に関する規定を置いています。
侵略戦争をしないことと、このための戦力をもたないことが明記されているため日本国憲法は「平和憲法」といわれています。
憲法第98条第一項で「この憲法は国の最高法規であって」と規定し憲法は国で最も優先される法律であるということが明記されています。国の法律や規則は憲法よりも下に位置付けられ、憲法に反する法律は効力がありません。
通常の法律よりも厳格な改正手続きを定める憲法を硬性憲法といい、日本国憲法はこれにあたります。硬性憲法には、多数意思であっても、あやまちを犯す危険は常に存在し、そうした権力行使に歯止めをかけるのが憲法の役割だという考え方が根底にあります。
それでは、日本国憲法改正にはどのような手続きが必要なのでしょう。
憲法改正には、国会と国民による2重のチェックが必要です。
「発議」とは、国会議員が議案を提出して審議を求めることをいいます。国会には衆議院と参議院がありますが、どちらが先にチェックしてもかまいません。日本国憲法第96条では、改憲について「各議院の総議員の3分の2以上」の賛成で発議することを求めています。
1)改正原案を発議
国会議員が原案を、衆議院か参議院に提出します。このとき、衆議院では100人以上、参議院では50人以上の賛同が必要となります。
「原案」は内容によって項目ごとに区別して提出する必要があります。
2)憲法審査会で審査を経て本会議に
衆議院憲法審査会及び参議院憲法審査会で審議されたのちに、本会議に付されます。本会議では、すべての議員の「3分の2以上の賛成」で可決となり、もう一方の院に送られます。
両院で可決されると「憲法改正案」となり、国会が憲法改正の発議を行います。
※普通の法案の場合、可決に必要なのは「出席議員」の過半数なので、出席議員のなかで過半数を占めていれば成立します(欠席議員は総数に含まれません)。これに対して、改憲の発議の場合は「総議員」の、しかも3分の2が必要です。
憲法改正の発議をした日から起算して60日以後180日以内で、国会の議決した期日に国民投票が行われます。国民投票の期日は、官報で告示されます。
憲法改正案に対する賛成の投票の数が投票総数の2分の1を超えた場合は、国民の承認があったものとなります。
「憲法改正案」の投票は、内容が関連する「改正案」ごとに提案され、それぞれの改正案ごとに一人一票を投票することになっています。
「改正案」が2つの場合は、それぞれに1票ずつ、計2票の賛否を投票することになります。
開票の結果が出たら、すぐに有効投票総数や賛成投票数、反対投票数などが官報で告示され、「賛成」が有効投票総数の過半数の場合には、改正が国民から承認されたことになり、総理大臣がすぐに手続きを行い、天皇が国民の名において改正された憲法を公布します。
日本国憲法改正について必要か否か。様々な議論がなされています。
例えば、憲法第9条についていうなら、平和を願う気持ちはきっと誰もが持っていると思います。同じ思いを持っていても、道が異なることはよくあります。
武器を持つことは戦うことではなく、身を守ることだという人もいます。武器を持つことで戦う意思があると思われるから、持つべきではないという人もいます。
正直どちらの言い分もわかります。そして私にはどちらが正しいのかわかりません。
9条だけに限らず、憲法についてもっとよく考える必要があるのかもしれません。
お勧めの本の紹介です
テレビでおなじみ池上彰さんですが、この本を読むとその人気の理由がわかります。誰もが認める分かりやすさはもちろんですが、目の付け所も面白い。
六法全書など日本の法律はどうしてこうもわかりにくい文章なんでしょう。それを私でもわかるように解説してくれています。
そして北朝鮮の憲法や中国の憲法、アメリカ合衆国の憲法にも触れています。「ああ、日本に生まれてよかった」と実感できるかもしれません。
今日は彼岸の中日だったんですね。春彼岸と秋彼岸、毎年3月と9月の春分の日と秋分の日をはさむ前後3日の合計7日間が、暦の上で「お彼岸(おひがん)」といわれる期間です。それぞれの初日を「彼岸の入り」、終日を「彼岸のあけ」といい、春分の日・秋分の日を「彼岸の中日」または「お中日」といいます。でも、彼岸ていったい何でしょう。
一般的に「おひがん」や「彼岸」と呼ばれていますが、正式には春分の日と秋分の日をはさむ前後3日の合計7日間が、「お彼岸(おひがん)」といわれる期間で、その期間に行われる仏事を「彼岸会(ひがんえ)」といいます。
本来、「彼岸」とは極楽浄土の事を言います。「彼岸」の字について見てみましょう。これは、「かのきし」と読み、「此の岸(このきし)」が現世であるのに対し、「かのきし」は彼の極楽浄土の岸のことです。
昔の人々は、日が昇る東から命が生まれ、亡くなると日が沈む西の方へ旅立つとし、その西の方に彼岸、此岸は東に位置するとされ、昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日には、太陽が真東から上り、真西へと沈み、彼岸と此岸とがもっとも通じやすくなると考えられていました。この時に供養を行うと、ご先祖様への思いが最も通じやすくなると考えられ、先祖の冥福を祈るとともに、自らもいつか迷いのない彼岸に到達できるように仏道の修行を積むという習慣が定着してきたのです。
先祖の冥福を祈り、お参りをするのはお盆も一緒のようですが、お盆は、極楽浄土からご先祖さまが帰ってくる日と考えられているのに対し、お彼岸は、ご先祖さまがいらっしゃる極楽浄土を思い、ご供養する期間です。
お彼岸には餅団子を作って先祖を供養するとともに、墓前にお参りをします。また、自分自身が仏道修行をする期間でもあります。仏道修行については、「六波羅蜜(六種類の徳目)」を行うことで、悟りを開くことだ言われています。
家では仏壇を、いつもより念入りにお掃除をしましょう。こころも清められ、六波羅蜜の実践にも繋がることでしょう。
お彼岸のお墓参りは、彼岸の期間であればいつお参りをしても良いという考え方が一般的です。都合の良い日を選んでお参りをすると良いでしょう。彼岸といえども、いつもと同じお墓参りです。服装は普段着でかまいません。
むかしからお彼岸には「ぼたもち」や「おはぎ」をつくり、仏前にそなえてきました。それぞれ春の花である牡丹(ぼたん)、秋の花である萩にちなみ、春は「ぼたもち」、秋は「おはぎ」と呼んでいたようです。春に食べられるぼたもちは基本的にこしあんで、秋に食べるおはぎは粒あんで作られます。秋の小豆は収穫したばかりで皮が柔らかいため、そのまま皮も潰して食べられるので粒あんが使われていました。しかし、春になると皮が固くなって食べづらいので、皮を取り除いたこしあんが使われていたのです。
ぼたもちやおはぎを作るために使用される小豆の赤い色は、魔除けの色として邪気を払うと重んじられてきました。また、ぼたもちやおはぎに使われるお餅にも、五穀豊穣や家族の健康を願う気持ちが込められています。
故人や先祖を供養するときに、仏壇やお墓に花を供え、線香を焚き、お供え物をするのが一般的ですが、宗派によって多少の違いはあるものの、仏教では大事なお供え物として「香」「花」「灯燭(とうしょく)」「浄水(じょうすい)」「飲食(おんじき)」の5つからなる「五供(ごく)」が基本とされています。
「彼岸」は煩悩・迷いの世界である此岸をはなれて、悟りの境地に到るように精進していく期間でもあります。仏教ではその為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)という彼岸へ到る為の六つの実践方法を説いています。
夏の暑さは秋分頃(秋彼岸の時期)まで、冬の寒さは春分頃(春彼岸の時期)までには和らぎ、それ以後は過ごしやすくなるという意味でつかいます。春分や秋分は二十四節気のひとつ、二十四節気と同様に季節の移り変わりの目安となるものに雑節(ざっせつ)と呼ばれるものがあり、彼岸は雑節の一つとなっています。
太陽は1日に約1度ずつ天球上の黄道線上を移動しそれが春夏秋冬の季節の変化を起こし、一年かけてまた元の位置に戻ります。この天球上の太陽の位置を24等分にし、各季節の呼称が24節気となります。
処暑(旧7月中気/8月23日頃)・・・ 日差しが衰えて暑さが遠のき、秋の気配が感じられる季節。
季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のこと。
レコードを眺めていてふと思いました。「昔はレコードだったんだよな~」 最近はサイトからダウンロードして聞くことが多くなった音楽。その歴史について簡単に紹介します。
実はいつから人類が音楽というものに触れてきたのかは正確には分かりません。ただ、43000年前の中期旧石器時代の「ネアンデルタール人の笛」と呼ばれるものが発見されているので、それよりもっと前から人類は音楽と関わってきたのでしょう。赤ちゃんは生後すぐ耳は聞こえ、音に敏感に反応することがあります。そう考えると、人類の誕生と音楽の誕生は一緒と考えても良いのかもしれません。ちなみに、世界最古の歌として知られているものは1950年代のはじめ、現在のシリアのウガリットで発掘された粘土板に彫られていたもので、世界最古の音譜として約3400年前のものだと言われているようです。
音を最初に保存したのは1857年、フランスの印刷技師エドアード・レオン・スコットが発明した、音を波形として残すものでした。しかし、音を再現できるところまではいかなかったようです。音として保存できるようになったのは、1877年、トーマス・アルバ・エジソンによって、録音・再生ができる録音装置が発明されてからです。ただし、これは盲人を補助するための機器として考案したもので、音楽を再生する用途は考えていなかったようです。
日本ではこれを蓄音機と呼びました。
1877年にトーマス・エジソンが蓄音機を発明するまでは、生で聴くか自分で奏でることで音楽を楽しんでいました。レコードの最初は錫箔を巻いた円筒式レコード、後に蝋(ろう)管式になり、さらにエミール・ベルリナーにより現在の形の円盤式レコードへと改良されました。
レコードが登場すると、音楽を保存して家庭で楽しめるようになり、その保存媒体は時代と共に変化しつつあります。
蓄音機やレコードプレーヤーで再生します。蓄音機は電気信号を使わずに録音した(振動を記録する)ものを再生し、レコードプレーヤーは電気信号に変えたものを再生します。
再生機器や回転数などにより、レコードにはいくつか種類があります。
直径がほぼ8、10、12インチのものがあり、直径の規格が精密に決まっていないため、わずかなばらつきがあるようです。モノラル記録で標準の回転速度は78回転、片面の演奏時間はおよそ2~5分程度となります。蓄音機により再生します。SPレコードは1955年頃まで製造されていました。LP盤やEP盤の登場により姿を消していきましたが、今でもファンは多くいるようです。最近ではカートリッジと針をSPレコード用に交換すればレコードプレーヤーでも再生できるようでうす。この場合78RPMが回せるレコードプレーヤーが必要です。
素材がポリ塩化ビニールで、それ以前のレコードと同等のサイズで長時間再生できる(直径12インチで収録時間30分)ので、LP (long play) と呼ばれました。回転数33回転3分の1(実際には3分100回転)でレコードプレーヤーで再生します。
直径7インチで収録時間5~8分。45回転のビニール盤で、穴が大きいためドーナツ盤と呼ばれました。これはオートチェンジャーで1曲ずつ連続演奏する用途を想定して企画されました。
※LPと同じ大きさの中心穴がついたものもあったようです。
収録時間がLPよりは短く、シングルよりは長い「Extended Play」を略してEP盤と呼びます。45回転7インチのビニール盤で片面7分以上に演奏時間が延長されています。
※ドーナツ盤と混同されることが多く、またドーナツ盤を含めて45回転盤をEPと称する場合もあります。
ごく薄い塩化ビニールのフィルムでできていて、音質はかならずしも良くないですが、大幅に安価で制作できるため、雑誌の付録などに使用されていました。
VG盤 variable gradeや12インチシングルなどもあります。
磁気テープはドイツから世界へ広まりました。アナログとデジタルがあり、オーディオ用、ビデオ用、データ/コンピュータ用などがありますがここではオーディオ用について説明します。
高速・大容量の記録ができるため音質に優れ、音源の頭出しがわかりやすく、テープを直接切って繋ぐ編集が容易であるなど操作性に優れていました。レコード用の音源録音は基本的にアナログオープンリールで行われていましたが、PCMデジタル録音が開発・普及されてからはデジタル方式が採用されるようになりました。最近では、家庭ではほとんど使われず、業務用も過去の録音素材を再生するのが主体となっています。
オープンリールに対し、1950年代以降、録音テープを扱いやすくするため、カセットに納めた状態の規格が数多く考案されました。そんな中、1965年にフィリップスが互換性厳守を条件に基本特許を無償公開したため、多くのメーカーの参入を得て事実上の標準規格となったのがフィリップス社の開発したコンパクトカセットです。一般的にカセットテープと呼ばれているのは実際はコンパクトカセットの事です。
カートリッジ式の磁気テープ再生装置として「8トラック*1」もありましたが、これに関しては再生専用に特化した傾向が強く、あまり普及しませんでした。
レコードは何度も聞くと摩耗して劣化してしまうため、レコードを購入した時は、レコードに比べて安価で、扱いやすいこともあり、カセットテープにダビングして音楽を聴いていました。その後、カセットテープの性能は向上し、1970年代には、クロムテープやフェリクロムテープ、そして、メタルテープが登場、それと共に、録音メディアとしてカセットが一気に普及し、パッケージや本体ラベルのデザインにもこだわるようになりました。
1979年にソニーが発売したポータブルカセットプレーヤーです。好きな場所で音楽を聴くことができるリスニングスタイルで、爆発的なヒットをしました。ウ ォークマンの登場でカセットテープもブームを加速させました。
デジタル情報を記録するためのメディアで、取り扱いの便利さ、大量生産の容易さ、製造コストの安さなどで普及、レコードはCDへ、カセットテープはMDへと移行していきました。レコードは、レコード針の機械的な接触によって再生されるため、摩耗してしまいます。これに対し光ディスクの寿命は劇的に伸び、ノイズが少ないクリアな音を楽しむことができるようになりました。
1982年、最初のCDが発売されましたが、それまでの生産ラインがレコードとは異なるため、最初は各社反対していましたが、2年後にはCDの売り上げがレコードを上回るようになりました。また、家庭でもCDの書き込みができることで、一層需要は高まったと言えるでしょう。MDに比べて音質が良いことから、コンパクトを追求するときはMD、音質を追求するならCDと使い分けている人も多かったと思います。
1992年、カセットテープの代替えとなるMDが登場すると、録音メディアの主流がMDに移行し、2000年頃からポータブルMDプレーヤーなどの小型化が進み、安定した高音質やランダムアクセスによる容易な選曲などの使い勝手の良さで、レコードやカセットテープは姿を消していきました。
1998年に発売した「mpman」。著作権など様々な問題を抱える中でのMP3プレーヤーでしたが、一部のオーディオマニアのアイテムでした。2001年「iPod」が発売されると、音楽はダウンロードして持ち歩く時代が到来。インターネットを介した音楽供給は音楽を保存した媒体を必要としなくなりました。
面白いもので、最近なぜかレコードやカセットテープが売り上げを伸ばしているようです。それはなぜか私なりに分析してみました。生で聴く音楽にノイズはつきものです。それに比べて音だけを追求した現在の音楽配信は味気のないものととらえる人もいるのではないでしょうか。確かにきれいで、実際に近い音を聞くことはできます。でもそれは現実にはあり得ない音で、温かみにかけるのかもしれません。演奏者の息遣いや周りの空気感が伝わりにくいのかもしれません。そこで、ぬくもりのあるアナログ復古の兆しが現れているのではないでしょうか。
*1:カーオーディオのほか、日本ではカラオケ装置での音楽再生や、バスの車内放送など業務用途に用いられていました
春になると新年度が始まり、一年の休みが気になります。「ゴールデンウィークは何連休になるかな?シルバーウィークは?年末年始は?」祝日と土日など会社や学校のお休みとの兼ね合いで、連休が長かったり短かったりと悲喜こもごもです。
ところで、祝祭日でお休みって聞いたことありますが、祝日と祭日の違いって何でしょう。
日本では1948年に施行された「国民の祝日に関する法律」で定められており、年間16日あります。
国民の祝日に関する法律では、「国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」と定められ、年度ごとの祝日は内閣府の公式サイトで確認できます。
1月1日 元日
1月8日 成人の日
2月11日 建国記念の日
2月23日 天皇誕生日
3月20日 春分の日
4月29日 昭和の日
5月3日 憲法記念日
5月4日 みどりの日
5月5日 こどもの日
7月15日 海の日
8月11日 山の日
9月16日 敬老の日
9月22日 秋分の日
10月14日 スポーツの日
11月3日 文化の日
11月23日 勤労感謝の日
1月1日 元日
1月13日 成人の日
2月11日 建国記念の日
2月23日 天皇誕生日
3月20日 春分の日
4月29日 昭和の日
5月3日 憲法記念日
5月4日 みどりの日
5月5日 こどもの日
7月21日 海の日
8月11日 山の日
9月15日 敬老の日
9月23日 秋分の日
10月13日 スポーツの日
11月3日 文化の日
11月23日 勤労感謝の日
祝日法第3条第2項により、「国民の祝日」が日曜や他の祝日に被った時に、その日の後の最も近い平日が代わりの休みになります。
2月12日・5月6日・8月12日・9月23日・11月4日
2月24日・5月6日・11月24日
国民の祝日に関する法律第3条第3項に規定する休日で、前日と翌日の両方を「国民の祝日」に挟まれた平日は休日となります。
ありません
ありません
年のはじめを祝う趣旨
現在は初詣をする人が多くいますが、昔は年の恵方の社寺に参詣していました。ちなみに元旦とは1月1日の午前中を指し、元日は1月1日を言います。元旦の旦の字は地平線から日が昇ることを表しているので午前中というより早朝を指しているのかもしれません。そしてお正月と言えば、雑煮やおせち料理を食べます。おせち料理には「普段から忙しいお母さんたちがお正月三が日ぐらいはゆっくりできるように」との意味があるようです。
おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます趣旨
祝日法の制定時、1月15日に制定されていましたが、ハッピーマンデー構想により、平成10年の祝日法改正で平成12年からは、1月の第2月曜日となりました。
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する趣旨
祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日で、成人の日とともに、次の時代の人々に大きな期待をかけていることが説明されています。子供に関する風習は3月3日の「ひな祭り」と5月5日の「端午の節句」があり、これを合わせて5月3日とする案もありましたが、5月3日は憲法記念日となったため、季節のよい5月5日となりました。
建国をしのび、国を愛する心を養う趣旨
昭和41年の祝日法改正により設けられた国民の祝日で、昭和42年から旧制の紀元節と同じ日が祝日となりました。紀元節は日本の初代天皇とされる神武天皇の即位起源を祝う日とされていました。
春分の日は自然をたたえ、生物をいつくしむ趣旨、秋分の日は祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ趣旨
旧制の「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」の日に当たり、それぞれ彼岸の中日とされています。彼岸とは「かのきし」つまり、極楽浄土の岸に至るという意味で各家庭で先祖を供養します。また、暑さ寒さも彼岸までという言葉の通り、暑からず寒からず昼と夜が等分の日、天文学上の言葉である「春分日」と「秋分日」が「春分の日」と「秋分の日」となります。法律に具体的な月日は定められず、国立天文台が毎年2月に公表する暦要項により、翌年の春分の日と秋分の日の日にちが確定します。
天皇の誕生日を祝う趣旨
祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日で、制定当初の「天皇誕生日」は、昭和天皇の誕生日である4月29日でした。
激動の日々を経て復興を遂げた、昭和の時代を顧み国の将来に思いをいたす趣旨。
昭和の時代に「天皇誕生日」とされていた4月29日は、平成元年から平成18年までは、みどりの日とされていました。平成17年の「国民の祝日に関する法律」の改正により、平成19年から「昭和の日」とすることとされました。
自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ趣旨
平成元年の「国民の祝日に関する法律」の改正により設けられ、それまで天皇誕生日となっていた4月29日が「みどりの日」とされました。平成17年の法改正により、平成19年から、4月29日が昭和の日とされ、みどりの日は5月4日に変更されました。新緑に季節であるこの時期を、「みどりの月間(4月15日から5月14日)」として、身近な緑や森林に親しんでもらえるようさまざまな緑化行事が行われます。
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する趣旨
祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日で、当初、憲法実施の日の5月3日と、公布の日の11月3日で、意見が分かれたようです。日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、半年後の昭和22年5月3日に施行されました。
海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う趣旨
平成7年の「国民の祝日に関する法律」の改正により、平成8年から設けられました。制定当初、海の日は、明治9年に明治天皇が東北地方に巡幸した際、灯台視察船「明治丸」で航海し、横浜港に帰着された日に因んで、7月20日に制定されていました。その後、平成13年の法改正により、平成15年から、現在の「7月の第3月曜日」に変更されました。
山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する趣旨
「海の日はあるのに山の日はない」という疑問から、山岳に関する5つの団体が、山の日を制定しようとする動きを全国的に始め、平成26年の「国民の祝日に関する法律」の改正により、平成28年から「山の日」が設けられました。当初は祝日のない6月にする案や、「海の日」(7月第3月曜日)の翌日にする案などがありましたが、8月11日に落ち着きました。国民の祝日になる前から全国各地には独自の山の日があり、特に8月8日は「やまなし山の日」「ぎふ山の日」、11月11日は「かがわ山の日」「えひめ山の日」「こうち山の日」など、「8」と「11」については複数の地域で山の日とされていました。8を漢字で書くと八となり、山の形に似ていることと、11は木を表すにふさわしいということのようです。
多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う趣旨
昭和41年の「国民の祝日に関する法律」の改正により設けられた国民の祝日で、平成14年までは、9月15日とされていました。平成13年の法改正により、平成15年から、現在の「9月の第3月曜日」に変更されました。
スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う趣旨
昭和41年の「国民の祝日に関する法律」の改正により「体育の日」として、昭和39年に開催された東京オリンピックの開会式に因み10月10日に設けられていましたが、平成10年の法改正により、平成12年から、現在の「10月の第2月曜日」となり、平成30年の法改正により、令和2年から、名称が「スポーツの日」に改められました。
自由と平和を愛し、文化をすすめる趣旨
祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日で、旧制の「明治節(明治天皇の降誕日)」と同じ日です。また、昭和21年に日本国憲法が公布された日でもあり、憲法において、戦争放棄を宣言し、国際的にも文化的意義を持つことから、平和を図り、文化を進めるという意味で「文化の日」と名付けられました。文化の日には、毎年、文化勲章 の親授式が宮中において行われています。
勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう趣旨
祝日法の制定当初から設けられている国民の祝日で、旧制の「新嘗祭」と同じ日に当たります。新嘗祭は、新穀の収穫に対する感謝と、翌年も豊作であるように願う日本古来の重要な宮中行事で、この感謝の気持ちを受け継いだ祝日が勤労感謝の日です。
「祭日」は、神社で祭祀が行われる日のこと。もともと皇室祭祀令という皇室の祭祀(宮中祭祀)に関する法令があり、ここで祭日は定められていました。しかし、1947年に廃止。そのため、現在では祭日はなくなり、祝日だけが残り、「祝日」「国民の祝日」という呼び方に統一されました。祭日は廃止されましたが、宮中祭祀は、皇室祭祀令に準じて現在も行われています。また、春季皇霊祭→春分の日、秋季皇霊祭→秋分の日など、明治時代に祭日だった日が名前を変えて、今の祝日に受け継がれているものもあります。
以下は宮内庁公式サイトの「宮中祭祀」より引用しています。
天皇陛下ご自身で祭典を行われ、御告文を奏上されます。
年始に当たって皇位の大本と由来とを祝し、国家国民の繁栄を三殿で祈られる祭典
昭和天皇の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)夜は御神楽がある。
春分の日に皇霊殿で歴代天皇などの霊を祀る祭
春分の日に神殿で行われる神恩感謝の祭典
神武天皇の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)
秋分の日に皇霊殿で行われるご先祖祭
秋分の日に神殿で行われる神恩感謝の祭典
賢所に新穀をお供えになる神恩感謝の祭典。この朝天皇陛下は神嘉殿において伊勢の神宮をご遙拝になる。
天皇陛下が、神嘉殿において新穀を皇祖はじめ神々にお供えになって、神恩を感謝された後、陛下自らもお召し上がりになる祭典。宮中恒例祭典の中の最も重要なもの。天皇陛下自らご栽培になった新穀もお供えになる。
掌典長が祭典を行い、天皇陛下がご拝礼になります。
早朝に三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で行われる年始の祭典。
孝明天皇の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)
三殿で行われる年穀豊穣祈願の祭典
天皇陛下のお誕生日を祝して三殿で行われる祭典
香淳皇后の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)
明治天皇の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)
夕刻から賢所に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典
大正天皇の崩御相当日に皇霊殿で行われる祭典(陵所においても祭典がある。)
1月1日の早朝、歳旦祭に先だって、神嘉殿南庭で天皇が山陵および四方の神々を拝する年中最初の行事
年始に当たって、皇室の祭祀を司る掌典長が、伊勢神宮および宮中の祭事のことを天皇陛下に申し上げる行事
神武天皇祭の夜、特に御神楽を奉奏して神霊をなごめる祭典
天皇陛下のために行われるお祓いの行事
神嘉殿の前で、皇族をはじめ国民のために行われるお祓いの行事
天皇陛下のために行われるお祓いの行事
神嘉殿の前で、皇族をはじめ国民のために行われるお祓いの行事
毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇陛下のご拝礼があります。
祝祭日でお休みと言うのは間違いで、カレンダーの休日はすべて祝日だったんですね。その他にある振替休日などは国民の休日でした。春分の日や秋分の日のようにもともとは祭日だったものも、今は祝日になっているんですね。
2024年7月3日に、一万円、五千円、千円の3券種の紙幣の肖像画などが一新されます。
わが国の貨幣は最初は金属で作られていました。紙幣が出回るようになったのは江戸時代からです。
1600年代三重県伊勢の商人の間で使われていた「山田羽書」
日本初の紙幣といわれ、江戸時代を通じて発行されていたようです。
1661年、福井藩は地域通貨に当る藩札「福井藩札(銀札)」を発行しました。
藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣で、現存する藩札としては「福井藩札」が最古のものです。
1868 年、日本最初の全国紙幣 「太政官札」発行
明治政府によって1868年から1872年5月まで発行された政府紙幣(不換紙幣)です。
1872年、新紙幣「明治通宝」を発行
政府は旧紙幣を回収し、流通している紙幣を統一するため、新紙幣「明治通宝」を発行しました。ドイツの印刷業者に原版の製造を依頼したため「ゲルマン紙幣」とも呼ばれていました。
1881年、デザインを一新した改造紙幣を発行
「明治通宝」の偽造対策として発行された改造紙幣で、わが国最初の肖像画入りの政府紙幣です。神功皇后の肖像が描かれていて、一円券・五円券・十円券の3種類がありました。
1885年、日本銀行が「日本銀行券」発行
銀貨と引換えのできる兌換銀券として、わが国ではじめて日本銀行券(「旧十円券」)が発行されました。
1899年、国立銀行紙幣と政府紙幣が通用停止となり、わが国の紙幣は日本銀行券に統一されました。
1942年、日本銀行法制定により、日本銀行券から兌換の文字が消えました。
これにより、銀貨と引換える兌換義務がなくなり、管理通貨制度へと移行しました。管理通貨制度とは通貨当局が自由に通貨発行量を調節できる制度で、今日も政府・日銀によっておこなわれています。
1938年には「臨時通貨法」が制定され、1946年には激しいインフレに見舞われ「新円切り替え」が行われるなど戦中・戦後の混乱の中様々なお札が登場しました。
1950年、新しく千円札が発行
この頃から紙質のよい、多色刷りの紙幣がつくられるようになりました。ここから銀行券の呼び名(シリーズ記号)*1にアルファベットが使われるようになります。
銀行券のシリーズ記号
1946年 A百円券( 図柄は聖徳太子と法隆寺夢殿・西院伽藍全景)・A十円券(図柄は国会議事堂と鳳凰)・A五円券(図柄は彩紋のみ)・A一円券(図柄は二宮尊徳)
1947年 A十銭券(図柄は鳩)
1948年 A五銭券(図柄は梅)
1950年 B千円券 (図柄は聖徳太子と法隆寺夢殿)
1951年 B五十円券 (図柄は高橋是清と日本銀行本店本館)
1953年 B百円券 (図柄は板垣退助と国会議事堂)
1957年 C五千円券(図柄は聖徳太子と日本銀行本店本館)
1958年 C一万円券(図柄は聖徳太子と鳳凰)
1963年 C千円券(図柄は伊藤博文と日本銀行本店本館)
1969年 C五百円券(図柄は岩倉具視と富士山)
1984年 D一万円券(図柄は福澤諭吉と雉)・D五千円券(図柄は新渡戸稲造と富士山)・D千円券(図柄は夏目漱石と丹頂)
2000年 D二千円券(図柄は紫式部、守礼門と源氏物語絵巻「鈴虫」)
2004年 E一万円券(図柄は福澤諭吉と平等院鳳凰堂鳳凰像)・E五千円券(図柄は樋口一葉と尾形光琳筆「燕子花図」)・E千円券(図柄は野口英世と富士山、桜)
2024年予定
新紙幣に描かれる人物は以下の通り。
(現行紙幣→新紙幣)
・1万円:福沢諭吉 → 渋沢栄一
・5千円:樋口一葉 → 津田梅子
・1千円:野口英世 → 北里柴三郎
それでは新紙幣に描かれる人物はどのような人物か簡単に紹介しておきます。
渋沢栄一は「渋沢財閥」を作らず「私利を追わず公益を図る」との考えを貫き通した。「日本資本主義の父」ともいわれる。
刷新の時期は2024年度とのことで、前回の変更から20年ぶりとなります。
福沢諭吉は、前回は刷新されなかったので約40年勤め上げたことになります。
*1:お札には明治以降、発行された銀行券を分類するために記号が付されており、改刷の都度変更されています。
未来に残したい宝を守るために、取り組まなければならないことを考えてみました。
最近地球上で多発している自然災害等は、地球温暖化に伴う気候変動が原因となっていると考えられ、今後そのリスクが更に高まることが予測されます。そうなると、残すべき宝どころか地球の未来が危なくなります。
各地で異常気象が発生する中、気候変動という地球規模の課題の解決に向けて、いろいろな場所で、「2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現」(2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにすること)を目指そうと呼びかけられています。
「温室効果ガス」とは、地表からの放射熱を吸収して、地表付近の大気を温める気体のことです。言葉の通り、地球を温室のように覆っているガスのことをいいます。
温室効果ガスが少なくなると地球の平均気温はマイナスになります。逆に、温室効果ガスが増えると、地表面からの太陽の熱(赤外線)が放出されにくくなり、地球に熱がこもった状態になってしまい、地球の平均気温が上昇していきます。これが地球温暖化です。
地球の表面は主に窒素や酸素などの大気におおわれていて、大気の中には二酸化炭素などの温室効果ガスがわずかに含まれています。温室効果をもたらす気体には、一酸化炭素、二酸化炭素、メタン、フロンなどがあり、なかでも二酸化炭素はもっとも温暖化への影響度が大きいガスです。二酸化炭素は、電気・ガス・水道の使用、自動車の利用などあらゆる場面から排出されています。
温室効果ガスが増えつづけて、地球温暖化がすすむと、次のような影響があるといわれています。
地球温暖化がもたらすさまざまな問題をできる限り抑えるためには、温室効果ガスを減らす取り組みを始めることが必要です。
地球温暖化防止に関する対策として、2015年の「パリ協定」で、「世界の平均気温上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃に抑える努力をする」「そのため、できるかぎり早く世界の温室効果ガス排出量をピークアウトし、21世紀後半には、温室効果ガス排出量と(森林などによる)吸収量のバランスをとる」という、世界共通の長期目標を掲げました。
さらに、2021年のCOP26では、産業革命以降の世界の気温上昇を1.5℃以下に抑えることを事実上の目標として確認しました。これにより、パリ協定では努力目標だった1.5℃以下が、事実上の目標へと格上げされたことになります。また、化石燃料に対する補助金の段階的な廃止も盛り込まれました。
日本では2021年に、2030年までに、温室効果ガス46%削減(2013年度比)を目指すこと、さらに50%の高みに向けて挑戦を続けることを表明しました。
また、「地球温暖化対策の推進に関する法律」の一部を改正し、「2050年までのカーボンニュートラルの実現」を法律に明記し、再生エネルギー利用の促進などの取り組みの向上を図っています。
1998年、国、地方自治体、企業などの責任と取組を定めた地球温暖化対策推進法が施行されました。この法律は、日本の地球温暖化対策の基本法律となっています。この法律で、政府は2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、カーボンニュートラルを目指すことを宣言しました。
地球温暖化対策推進本部の設置
地球温暖化対策推進本部は、具体的で実効性のある地球温暖化防止対策を総合的に推進するため、1997年、内閣に「地球温暖化対策推進本部」が設置されました。その後、2005年、地球温暖化対策の推進に関する法律の改正法が施行され、地球温暖化対策を総合的かつ計画的に推進するための機関として、法律に基づく本部として改めて内閣に設置されました。
日本では、2014年以来6年連続で温室効果ガスは減少し、2019年度の温室効果ガス総排出量は2013年度の総排出量と比べて14.0%減となっています。その要因として、エネルギー消費量の減少(省エネルギー等)や、電力の低炭素化(再生可能エネルギーの導入拡大、原子力発電所の再稼働等)に伴う電力由来の二酸化炭素排出量の減少等が挙げられます。部門別に見ると、産業部門17.0%減、運輸部門8.2%減、商業・サービス・事業所等の業務18.8%減その他部門及び家庭部門23.3%減と、排出量は全ての部門で減少傾向にあります(2019年度で2013年度比)。
国では、再生可能エネルギーを最大限に活用・有効利用して建築物の建築や管理を行い、電動車の導入や再生紙等の再生品や木材の活用、3R+Renewableの徹底*1など、率先して実施するとしています。
また、地方公共団体は、国が策定する地方公共団体実行計画の策定・実施マニュアルを参考に、自らの事務及び事業に関し、地方公共団体実行計画事務事業編を策定し実施することとし、区域の事業者・住民の模範となることを目指します。
内閣官房長官を議長とする国・地方脱炭素実現会議が設置され、2030年までに集中して
行う取組・施策を中心に、工程と具体策を示す「地域脱炭素ロードマップ」が策定されました。
「地域脱炭素ロードマップ」では、”地方公共団体や地元企業・金融機関が中心となり、国も積極的に支援しながら、少なくとも100か所の脱炭素先行地域で、2025年度までに、脱炭素に向かう地域特性等に応じた先行的な取組実施の道筋をつけ、2030年度までに実行し、これにより、農村・漁村・山村、離島、都市部の街区など多様な地域において、地域課題を同時解決し、住民の暮らしの質の向上を実現しながら脱炭素に向かう取組の方向性を示すことと”しています。
脱炭素先行地域の範囲は、行政区、集落、同一の制御技術等で電力融通やエネルギー需給の最適運用を行う施設群など様々で、脱炭素先行地域は、複数の地方自治体が連携して取り組むことも可能です。
環境省では、「2050年に二酸化炭素を実質ゼロにすることを目指す旨を首長自らがま
たは地方自治体として公表した地方自治体」をゼロカーボンシティ と 定義し ています。多くの自治体が脱炭素に取り組むことを表明し、その数は増えつつあります。
「カーボンニュートラル」とは温室効果ガスの排出そのものをなくすという意味ではなく、二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させ排出量を実質ゼロに抑えようとすること。
温室効果ガスの排出を完全にゼロに抑えることは、現実的に困難です。そこで、社会活動全体で、温室効果ガスの排出量と同じ量を、森林が吸収したり、人為的に除去したりすることで、プラスマイナスゼロにしよう、という取り組みです。
「カーボンオフセット」は削減できなかった二酸化炭素の排出量を環境保護活動などに投資を行うことなど、で埋め合わせる(オフセットする)ことで間接的に実質ゼロをめざすものです。
太陽光・風力・地熱・中小水力・バイオマスといった自然界に常に存在するエネルギーのことです。
家庭でも多くの二酸化炭素が排出されていて、地球温暖化による影響を最小限に抑えるには、個人でも防止に向けた取り組みを行うことが大切です。
家庭からの二酸化炭素の排出の約半分が、電気の使用によるものだと言われています。小まめなスイッチオフと電気製品のプラグをコンセントから抜くことを心掛けるこが、二酸化炭素の排出の防止につながります。また、最新の家電製品は省エネ化が進んでいるため、電化製品を購入するときは、省エネ家電・LED照明等を意識して購入してほしいと思います。
環境省ホームページでは省エネ家電買換ナビゲーション「しんきゅうさん」を用意しています。買い替えの時の参考にしてみてください。
省エネ製品買換ナビゲーション「しんきゅうさん」|COOL CHOICE 未来のために、いま選ぼう。
水は、大量のエネルギーを使用しています。お風呂でのシャワーの出しっぱなし、歯磨きの最中の水道水の出しっぱなしには注意しましょう。
車はエンジンを動かすことで、常に二酸化炭素を排出しています。公共交通機関や自転車で移動することで二酸化炭素の排出を抑えることができます。電車やバスは、一度にたくさんの人を運ぶことができ、一人当たりの温室効果ガスの排出量を少なく抑えられます。自転車は、温室効果ガスを排出しない乗り物です。
レジ袋(プラスチックバッグ)のゴミや生産を減らすことが、二酸化炭素の排出を抑えることにつながります。プラスチックバッグは、大量のごみとなり、そのごみを運んだり、燃やすために大量の温室効果ガスが排出されます。また、商品を選ぶ際には、簡易包装のものを選ぶことや、使い捨て商品より繰り返し使えるものを選ぶことでごみを減らすことができます。廃棄物になるようなものは購入しないことも大切です。生産、加工、梱包、輸送のために使った資源やエネルギーも無駄になります。ものが壊れた時には修理して長く使うことも心がけましょう。
「5R(ファイブアール)」とは、ごみを減らすための、Rで始まる5つの行動を意味します。
Reduce(リデュース):ごみを発生させない
Reuse(リユース):ものを繰り返し使う
Recycle(リサイクル):資源として再生利用する
Refuse(リフューズ):断る
Repair(リペア):修理して使う
植物は二酸化炭素を取り込んで光合成を行い、酸素を作り出します。また、葉から出る水蒸気で周りの温度を下げる効果もあります。家庭菜園や庭の手入れ、ベランダに緑のカーテンを作るなどすることが温暖化対策につながります。
環境省では、衣、食、住、移動、買い物など、普段のどのような行動が脱炭素につながっているのかを「ゼロカーボンアクション30」としてまとめています。
ゼロカーボンアクション30|COOL CHOICE 未来のために、いま選ぼう。
*1:Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、Recycle(リサイクル)と再生可能な資源に替えること
普段歩いていると目にするマンホール。最近は市町村の趣向を凝らしたデザインのマンホール蓋が目につくようになりました。調べてみるとマンホールカードと言うものがあるらしく、市町村のホームページには「マンホールカード配布」の文字が。どうもマンホールカードは配布場所が限定されており、その場所に行かなければもらえないらしい。大変貴重なものとも言えそう。
と、ここで私いったん考えました。そもそもマンホールって何だろう?
下水道事業や雨水対策事業をはじめ、農業用水事業、電話線・光ファイバー・ガスなどが埋設されている場所には必ずマンホールが設置されています。そして、そのほとんどは、点検のための出入り口となっています。よく私たちが目にするマンホールは実はマンホールの蓋で、そこから縦に貼られた穴がマンホールというんです。だから「人(Mam)」「穴(Hole)」と言うそうです。構造は、鉄蓋と受け枠・調整部・斜壁・スラブ・直壁・底部などからなり、総称してマンホールと呼びます。
一般にマンホールと呼ばれてはいますがマンホール蓋が正解で、ここからは蓋についてみていきたいと思います。
マンホールの蓋は丸いものが多く、四角いものはあまり見かけません。実はこれには訳があるんです。
この図の通り、丸い蓋はどの向きでも同じですが、四角い蓋は辺よりも対角線が長いため向きが変わると落ちてしまいます。よほどのことがない限り、円の形をしたマンホール蓋は中に落ちるはありません。また、角がない分すり減ることが少なく丈夫で、転がして運ぶこともできるという利点もあるそうです。
マンホールの蓋には管理会社の名前が入っています。この場合、電気、ガス、通信で使われていることがうかがえます。地中を通る通信ケーブルを管理したり、地中送電設備の日常点検や設備改修するなどしています。ロゴも多くつかわれているため、ちょっと判りにくいかもしれません。
町中に一番多く存在しているのは上下水道のマンホールではないでしょうか。この場合、管路の分岐点や合流点に設置され、蓋には雨水か、汚水か、雨水と汚水の合流式か一目で分かるようになっています。
マンホールのデザインには歴史があり、デザインを見るといつごろ造られたかわかります。また、数字の羅列も見受けられ、その数字からも情報を読み取ることができるようです。
このようにマンホール蓋には情報がたくさん詰まっているのがわかります。
最初に日本でつくられたマンホールの蓋は木製の格子ふただったとの話もありますが、現在のような丸形のものは、西欧(主にイギリス)を参考にして製造されたと考えられています。当時は、壁の受け枠が直接支える「平受け」という構造でした。
「平受け」は隙間に異物が入りやすく、ふたが前後に動いたり、回転したりするため、摩擦による摩耗でガタツキが発生します。車両の増加や大型化も相まって、そのガタツキが騒音をもたらす原因となりました。この解決策として、ダクタイル鋳鉄(FCD)と呼ばれる材料を使用し、がたつきを防止する「勾配受け」という構造が開発されました。蓋の側面と受け枠を6~10 度の勾配面に加工し、ぴったり密着させることでガタツキが発生するのを防ぐ仕組みです。
しかし今度は、過剰な食い込みが問題となりました。そこで、上段と下段それぞれに勾配を持たせるという「RV」構造が登場しました。これは、上段の勾配面で過剰な食い込みを抑え、下段の勾配面でがたつきを防止するという2つの機能を兼ね備えた仕組みとなっています。
このような仕組みは世界でも類を見ない日本の技術です。
構造だけではなく、材質やデザインも進化を続けています。例えば豪雪地帯では、汚水が温かいため、冬雪が積もるとマンホールのところがくぼみます。このくぼみは通行上危険なので、近年はウレタン製の「断熱蓋」を導入する市町村も増えています。
また、下水道事業のイメージアップと市民アピールのために、各市町村が独自のオリジナルデザインマンホールを作成するなど、デザイン化も進んでいます。
世界に誇れる文化物である日本のマンホール蓋を楽しく伝えるとともに、下水道への理解・関心を深めていただくためのコミュニケーションツールとして「マンホールカード」があります。
マンホールカードは全国の下水処理場や各市町村、道の駅などで配布していますが、配布場所が限定されており、その場所に行かなければもらえません。下記のサイトではマンホールカードの配布場所など調べることができます。
たまに目にすることがありますが、市町村の公式サイトで、マンホールの蓋を勝手に開けて雨水を流さないよう求めています。先にも書きましたが、マンホールには雨水、汚水、雨水と汚水の合流式と、役割があります。それを勝手に流し込むことは危険な事です。だからと言って簡単に開けられないようにすると、作業効率が悪くなります。
ちょっとした工夫とアイディアでこういう問題解決の糸口が見つかるといいと思います。
日本では1993年12月、法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)と姫路城(兵庫県)が世界文化遺産に最初に同時登録されました。
世界遺産についてはこちらの記事で説明しています。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(3. 資産の内容)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。
姫路城の指定建造物は、以下に述べるように、17世紀初頭の一連の軍事施設として歴史的配置を維持するとともに、芸術性の高い優れた意匠になるもので、世界遺産条約第1条の建造物群に該当する。その82棟の国宝・重要文化財指定建造物目録は、付属資料6(ここでは「姫路城の世界遺産への構成資産」に記載)にある。
指定建造物の大部分は、池田輝政時代の1601年から1609年にかけての建築であるが、西端の一郭の櫓・土塀は本多忠政が17世紀前期に改修したもので、南端の一郭の東端の門は池田時代以前の1599年の建築である。
その建造物群の中心は、屋根を重ねて高くつくった楼閣状の建物からなる天守群である。その周辺には見張り等の目的の櫓、城の防御のための門や土塀が周到な配慮のもとに配置してあり、市中からも遠望できる美しい全体の姿が構成されている。
城の中心となる天守群は、内郭の北東よりの最も高い位置に建っている。5層の屋根を重ねた大天守と3層の屋根を重ねた東小天守・乾小天守・西小天守の4つの建物を4隅に置き、それぞれを廊下状の櫓でつないで、四角の形に建物を配置する。
天守群の西南は、天守群にいたる主要通路になっている。この天守群に向かって、城の防御のために徐々に高くなるように地形が区画され、区画の境に土塀が建っている。土塀の途中に門を開く。天守群に到達するには、各門を通過せねばならず、防御の万全を期している。とくに天守群に近い門は、土塀の一部を利用した簡略な形で、城を襲撃する外敵の目をあざむくように工夫されている。
天守群の北側に建つ櫓は、戦争時に城にたてこもる際に必要な食糧等の物資の貯蔵のための建物である。
天守群の東側の道は、わざと曲がりくねって急勾配にし、敵を通りにくくした、城の防御を考慮したつくりである。道をのぼりきった位置には、櫓・門・土塀があり、せめのぼってきた外敵を上から攻撃できるようになっている。
天守群の南の一郭、備前丸は、現在は空地になっているが、もとは城主の居館が建っていたところである。これらの建物は、1882年に火災で焼失した。
内郭の西端の一郭は、本多忠政が整備したところで、現在は外廻りの櫓・土塀を残すだけで敷地は庭園となっているが、もとは城主の居館・御殿が建っていた。この部分の建物は、1874年に軍隊の兵舎設置のため撤去された。
土塀や櫓には、丸・三角・四角の銃眼が開いており、防御を目的とする城郭建築の特徴をよくあらわすとともに、独特の意匠をつくりだしている。
姫路城の建造物群は、すべて木造、瓦葺で、白色の土塀で統一された優美な外観をもつことから、白鷺城の別名をもち、その名でも広く知られている。
「姫路城」は、17世紀初期における日本の城郭建築の最も良好に遺存する事例である。兵庫県姫路市に位置し、古来、この地域は西日本の交通の要衝とされてきた。
播磨平野の中央部、小高い丘の上に建つ城郭資産の面積は107ha。日本の封建時代初
期(17世紀初頭)以来の高度に発達した防御システム及び独創的な防御装置の一部である、大天守、小天守、それぞれをつなぐ廊下状の建造物で構成される天守群を中心とした82棟の建造物から成る。1868年、幕府が倒れ、新政府が発足するまで、城は約3世紀にわたり藩の中心として機能した。それらの主な集合体は市内のほぼどこからでも見ることができ、「白鷺城」と称される白色の漆喰塗り土壁で統一された優美な外観、及び多数の建築と重なり合う屋根による繊細な構成の両者において、機能と美しさを融合させた木造建造物群の傑作である。
この世界遺産は世界遺産評価基準のうち、(i) (iv) に該当します。
(平成5年記載)
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(「日本ユネスコ協会連盟」からの引用となります)
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。評価基準(iii)については、推薦文には載っていましたが、顕著な普遍的価値(OUV)の言明には登録されていないようです。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。
城は世界各地で築かれ多くの建造物群が残されているが、その多くは石造や煉瓦造である。姫路城をはじめとする日本に現存する16世紀から17世紀の城は、濠や石垣を除き、主要な建造物群はすべて木造で、外壁は土壁でつくられている。このためその建築様式やデザインは、世界で他に類をみない貴重なものといえる。
日本国内の他の城と比較しても、4つの天守からなる天守群の構成や白壁でつくられた建造物群全体の意匠はとくに優れており、天守群・櫓・門・土塀の城郭の構成を示した建造物群が最もよく保存されたもので日本を代表する文化遺産といえる。
資産は、内郭と外郭で構成される城郭のほぼ全域と一致する107ha の一区域内の範囲であり、南東部を除けば、外郭の城壁に沿う濠によって区画される。歴史的変遷の過程で既に失われてしまった建物もあるが、資産の範囲には、天守・櫓・城壁・城門・石垣等を含む82棟の構成要素が17世紀初期の配置と状態を申し分なく保っている。
歴代城主は、17世紀、18世紀、19世紀のそれぞれの時期に順次修理を行い、城を維持してきた。時代の変遷の中で一部失われた建造物もある。政府が接収し、西の丸の一部や武家屋敷が軍事施設に取って代わった。その後この施設は1945年に撤去され、公共建築に建て替わった。1882年には城主の居館が火災で焼失したが、損失は軽微と考えられ、全体の完全性は維持されている。
以上のように、「姫路城」は17世紀の日本の城郭に見られる内部及び外観の特徴を十分に保っており、全体性及び無傷性の双方の観点から完全性の条件を満たしている。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」引用です。
姫路城の建造物群とその所在地域は、築城以来19世紀後期まではここに住んだ歴代大名によって、それ以後は国及び関係機関により適切な維持・管理が行われ、意匠、材料、技術、環境のいずれにおいても創建以来の状態を現在によく残している。
とりわけ1934年から1964年までの30年間に行われた保存事業は、国が直轄事業として根本的に修理・復原をしたもので、その保存のために大いに意義のあるものであった。この保存事業では、日本で確立された木造文化財の修理のための優れた技術が活用された。また、修理の方針については、複数の学識経験者によって構成された修理委員会の討議に基づき決定された。とくに復原のための現状変更については、国がイコモス国内委員会メンバー多数を含む学術的な文化財保護審議会で審査を行い、許可を与えている。この保存事業により文化財としての真正性は次のように保たれた。
i) 意匠の真正さ
姫路城の建造物群は、16世紀初期からその当初の意匠をそのまま守ってきた。1934年から1964年までの修理においても意匠の復原はほとんど必要がなかった。
一般に木造の城郭建築では、防火目的のため木造の構造体の外周を土壁で覆う形をとる。このため、土でできた外壁に接した木材にどうしても蒸れや腐れが起きやすい。姫路城の建造物群の場合、建築後かなりの年数を経ていたため、外壁に接した木材や外壁の土は、相当程度破損や腐朽が進行していた。
1934年から1964年にかけての保存事業では、この破損した木材の取り替えが行われたが、破損部材を取り替えるためには、外壁を取り外す必要があった。外壁の素材の維持のため、壁を構成する土の成分や材料の組織を化学的に検査を行い、それに基づいて修理前と同じ質の土で壁を復原するべく努めた。また、壁の仕上げについては、伝統的な技法を受け継いだ職人の手によって、昔ながらの手法によって仕上げる努力がはらわれた。このようにして創建時の意匠が引き継がれた。
ii) 材料の真正さ
1934年から1964年にかけて行われた修理では、土壁に覆われて腐朽した木の部材や地盤の湿気により腐朽した部材等の取り替えを余儀なくされた。これらの部材については、木材の材質、仕上げ、加工方法等の綿密な調査を行い、取り替え後の部材が同じ材質、仕上げ、加工となるように努力がはらわれた。取り替えを必要とした部材は、外壁に接した部材の多くと一部の柱の足元等で、その他の基本となる構造体及び建物の内部には当初材がすべて残されている。
iii) 技術の真正さ
1934年から1964年にかけての保存事業では、部材の加工から組立にいたるまで、すべて伝統的な技法で行われ、技術的には創建当初と変化しているところはない。ただし、大天守の基礎については、鉄筋コンクリートの補強がある。これは、5層の屋根を重ねた巨大な大天守の700トンの重量に対して地盤が弱く、水平・垂直方向に大きな変位を生じていたためで、修理を必要とする大きな原因であった。地盤は地中深い岩盤とその上部の土からできていたが、日本は地震国であり、大天守のような巨大な建物では、補強のない地盤では破壊の危険がある。このため将来的な保存を考慮して地盤の中に鉄筋コンクリートの基礎フレームを建物と地下の岩盤の間に挿入した。この補強は、外観からは見えない土中に限ったものであり、弱い土をコンクリートフレームに置き換えただけで他の部分に影響を与えるものではない。
iv) 環境の真正さ
姫路城は、歴史的な変遷の過程で一部の建造物を失ったが、天守群をはじめとする主要な建造物群は創建時のままの状態を保っている。
所在地域の周辺部分の環境は、武士階級の消滅などの歴史的経過のなかで、大名の居館や周辺の武家屋敷の地区の歴史的建造物が失われたが、濠や石垣などは保存されている。また、この区域で進行中の、建造物群とその周辺環境にあわせた保存整備計画は、都市環境の近代化の過程の中にあって、歴史的遺産を社会的に活用するため最大限の良好な環境の形成をめざしている。
1934年から行われている一連の保存修理は、形態・意匠、材料・材質、伝統・技術、位置・環境の真実性に関して確立された概念に従って、木造建造物修理のために日本で発展してきた技術を用いて行われてきた。新たな材料の使用は厳格に管理され、重要な提案は全て審議会で審議され承認を得ることとされている。19世紀または20世紀に増築された建造物は撤去されている。
唯一の現代的材料の適用は、鉄筋コンクリート造基礎の挿入である。これは、地震活動が活発な地域においては、脆弱な地盤により主要構造の変形が進むと、急激な崩壊につながるという理由から、その正当性が裏付けられて行われたものである。不相応な扉や窓といった初期の修復事業で設置された造作については、建立当初の構造や材料について資料的に明らかなものについて適切な姿に復原した。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトの「世界遺産一覧表記載推薦書」2. 法的事項のb) 法的保護状況を参考にしています。
姫路市の建造物群を構成する建造物82棟は、文化財保護法(1950年8月29日施行)弟27条に基づき、国宝または重要文化財に指定されており(以下、指定建造物という)(付属資料6 建造物目録及び官報告示写し)、また、それらが所在するところの推薦地域は、法第69条により特別史跡に指定されている(以下、史跡という)。
指定建造物および特別史跡指定地内の現状を変更する行為は制限され、国の許可を得る必要がある(法第43条・80条)。指定建造物の修理は国に届出が必要で(法第43条の2)、修理と管理には国が経費を補助し、技術的指導を行う(法第35条・47条)。また、文化財保護法の条項に違反した場合には罰則が課せられる。
指定建造物は国の所有であり、その所在するところの史跡も主として国有地であるが、一部は兵庫県、姫路市及び民間の会社法人等の所有地である。そして文化財保護上の管理は、指定建造物及び史跡指定地ともすべて、姫路市が管理団体として必要な管理を行っている。管理団体とは、文化財保護法にもとづいて、所有者にかわり保存のために必要な管理(見回り、除草、防災施設・保存施設の設置や修理及びに公開等の文化財の利用のための行為)を行うために文化庁長官が指定した地方公共団体もしくは法人のことである(法第32条の2・47条の2)。管理団体である姫路市は、指定建造物の修理を行うが、この場合には所有者である国の意見を聞く必要がある(法第34条の3)。また、上記の現状変更の許可の申請や修理の届出等も、姫路市が所有者である国に対して行う。
指定建造物の公開は、管理団体である姫路市が行っている(法第47条の2)。建造物群の大部分は一年を通じて一般に公開されており、未公開建造物も管理団体の姫路市の許可を得て見学することができる。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトの「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」を引用しています。
1868年に日本の近代が幕開けた後は、政府が地方公共団体と協力して遺産の保護に
当たってきた資産を構成する83棟の建造物及び107ha の土地は、すべて、文化財保護法の下で国宝・重要文化財又は特別史跡に指定され、保護されている。この法律に基づき、遺産の現状変更行為が規制されており、あらゆる変更行為に国の許可を必要としている。143ha の緩衝地帯における開発圧力は、姫路市都市景観条例(1987年)によって規制されている。姫路市では、景観法(2004年)に基づき、この条例を向上させるための改正を2008年に行った。また、景観法の法制化に伴い、2007年には1988年都市景観形成基本計画の改正及び姫路市景観ガイドラインの策定が行われた。これにより、「姫路城」を眺望できる道路沿いの全ての事業、及び、「姫路城」周辺における一定規模以上の事業については姫路市に届け出ることとされ、姫路市は提案される建築計画が資産の歴史的環境の特徴と調和していることの確認を行うこととされた。
資産を構成するすべての建造物及びその土地の大部分は、国の所有である。それ以外の
土地は、兵庫県・姫路市・民間企業の所有である。姫路市は、文化財保護法に基づき、同法の下に保護されている建造物及び土地の管理団体に指定されており、姫路城管理事務所を設置するとともに、姫路城管理条例(1964年)、特別史跡姫路城保存管理計画(1986年作成、2008年最終改正)に定めた事項及び国の指導に従って、維持の措置、清掃、定期点検、交通規制、防災、敷地内の整備、案内業務等、管理の責務を果たしている。
資産を危険にさらす最大の要因が火事及び地震であることから、建造物には自動火災報
知器・防犯カメラ・消火・避雷の設備が行われ、それらの全体が姫路城防災センターにおいて監視されている。地震に関しては、大天守に求められる構造補強の方法を研究・分析・開発及び実施するために、姫路市が2006年に専門委員会を設置した。
以上が世界遺産に登録されている姫路城の建造物の一覧です。
豊臣秀吉が中国攻めを開始した際黒田官兵衛から提供された姫路城は、関ケ原の戦い以降徳川家康の命を受け池田輝政の時代に本格的に大改修されました。
入城料
※小学校就学前は無料です。
※小学校・中学校・高校の教育旅行については、生徒15人につき引率教師1人は無料となります。
※障害者手帳をお持ちの方は、本人と介助者1名が無料となります。ただし、車いす利用の場合は、本人と介助者3名までが無料となります。
ここで少しだけ日本の城について説明しておきます。
戦国の戦いでは城は天守に攻め込まれれば落城とする暗黙のルールがありました。そのためいかに天守を守るかが重要で、天守の形式によりその方法が垣間見えるようです。
もともと城は「軍事的目的のために建てられ、敵を防ぐための建造物」でした。城の構造や、城郭用語を知ると城がいかに防御や攻撃を意識して造られているかがわかります。天守閣が城の象徴のように感じられますが、実は天守閣のないものも多く存在し、天守閣=城というわけではありません。天守は敵を見るためには優れていましたが、敵からの目標を定めやすいため防御には向かず、あえて天守を設けない城もあったようです。
城の正面を「大手」裏面を「搦手」と言います。 大手門は表門にあたり、裏の門を搦手門と言います。ちなみに門の形式で一番格式高いものは2階建ての櫓門です。
城内に堀や土塁などで区画されて設けられた平たんなスペースの事で、郭(くるわ・かく)も同じ意味です。また、本丸などの丸も同じ意味で使われます。ちなみに、本丸はひとつの城において最重要かつ中心となる曲輪のこと。
曲輪の周囲に掘られた溝のことで、敵が城に侵入するのを防ぐために造られました。
狭間は壁や塀に設けられた攻撃用の穴で、弓を射る「弓狭間」と鉄砲を撃つ「鉄砲狭間」があります。
1階の床を張り出すように設置され、石垣を登ってくる敵に石を落としたり鉄砲を放ったりする装置です。
天守や櫓の壁面を彩る三角形の屋根を妻部分の事です。「入母屋破風」「切妻破風」「千鳥破風」などがあります。「唐破風」は神社などに使われ、格式が高い形状となります。
敵の監視や攻撃、戦時物資の収蔵などの役割をかね備えた建造物の総称です。二十櫓が一般的で三重櫓は幕府系の城に限られました。天守のない城では天守の代用にもなっているようです。
壁や土塁などで囲まれた空間を指します。防御力が高まることから、戦の際の主要な出入り口となる虎口に設けられることが多く、虎口の形態としては最も発達した形式と考えられます。
法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)は、1993年12月、日本で最初に姫路城(兵庫県)とともに世界遺産(文化遺産)に登録されました。
世界遺産として登録されるにはいろいろな条件があり、それを証明することが求められます。そこで、世界遺産としての「法隆寺地域の仏教建造物」についてみてみたいと思います。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(3. 資産の内容a) 歴史)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(摘要)」引用です。
仏教は中国から朝鮮半島を経由して6世紀中頃に日本に伝わった。7世紀、法隆寺地域では、天皇の皇子・摂政であった聖徳太子が法隆寺・中宮寺を建立し、また、天皇一族が、太子の病気平癒を祈って法輪寺を、さらに太子の没後、その宮跡に法起寺を建てた。
7世紀初頭に聖徳太子が創建した法隆寺はいったん670年に焼失する。その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡として残る。寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、場所を変更して、再建される。それが現存する法隆寺西院である。その建造物のうち、講堂のみは925年に焼失するが、990年にそれも再建される。
西院と並んで現在の法隆寺の中枢部を構成している東院は、8世紀前半に聖徳太子の斑鳩宮跡に太子の霊を祀るために建設された伽藍である。
法隆寺には西院と東院のほかにいくつかの子院がある。僧侶は古くは講堂周辺にある僧坊で共同で生活していたが、11世紀ごろから高僧とその弟子たちの集団がそれぞれ宗教活動を行う小寺院を設立し、そこで生活するようになる。それが子院である。いま法隆寺に残る子院の建造物の多くは16〜17世紀にかけて建設されたものである、そのころ、西院・東院とあわせて、ほぼ今日に見る法隆寺全体の構えができあがったのである。
法隆寺は、古くは鎮護国家の寺として天皇家の保護を受け、さらに、12世紀ごろからは広く一般庶民の問に聖徳太子を尊崇する信仰がひろまり、太子創建の寺として多くの信者を集めて繁栄した。その維持修理には終始国家の厚い庇護があった。しかし、近代国家日本の出発である1868年の明治維新では、神道を重んじ、仏教を排斥する思想が尊重され、その趨勢のなかで法隆寺も衰えた。このため文化財の保護の必要性を認めた新政府は1897年に古社寺保存法を制定し、それによって新しく文化財の学術的な調査と保護の途が開かれた。その伝統は現在の文化財保護法に引継がれている。
法起寺は聖徳太子の遺命によってその宮であった岡本宮跡にその子の山背大兄王が7世紀に建立したと伝える。しかし、16世紀末、兵乱によって焼失し、わずかに三重塔のみが残る。この三重塔も法隆寺の歴史的建造物と同じく文化財保護法の保護下にある。
「法隆寺地域の仏教建造物」は奈良県に所在する。この世界遺産は法隆寺と法起寺の2つの寺院における48棟の木造建造物から成る。法隆寺の面積は14.6ha、法起寺は0.7ha である。2つの寺院は面積570.7ha の緩衝地帯に囲まれている。
「法隆寺地域の仏教建造物」は、日本に仏教が伝来した直後に創建された日本最古の仏
教建造物であり、その後の寺院建築に多大なる影響を与えた。
資産内にある11棟は、7世紀後半から8世紀にかけて建立されたもので、現存する世界最古級の木造建築に類する。創建された法隆寺はいったん670年に焼失したが、その遺構は現在の法隆寺境内の地下に若草伽藍跡から現西院の南東に至って残る。再建は焼失のほぼ直後から始まり、8世紀初頭まで続いた。
建造物は中国の柱間構造を基にしており、これは入り組んだ肘木によって急勾配の屋根の重みを巨大な木造の支柱に分散させる軸組工法を改良したものである。エンタシスをもつ柱や雲形肘木を巧みに利用しているという点で注目に値する。
これらの木造建築の傑作は、中国の仏教建築及び伽藍配置が日本文化に取り入れられたことを示していることから、芸術史上において重要であるのみならず、建築時期が朝鮮半島を経由して仏教が中国から日本に伝来した時期と合うことから、宗教史上においても重要である。法隆寺は創建時から天皇家の保護を受け、さらに、12世紀頃より盛んになった聖徳太子を尊崇する信仰により、多くの信者を引きつけた。その結果、法隆寺は常に完璧な形で維持保存されてきた。
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、(i) (ii) (iv) (vi)に該当します。
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。(「日本ユネスコ協会連盟」からの引用となります)
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(5. 世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(評価基準 )」引用です。評価基準(iii)については、推薦文には載っていましたが、顕著な普遍的価値(OUV)の言明には登録されていないようです。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(4. 資産の保護状態 a) 現況)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(完全性 )」引用です。
法隆寺地域の国宝・重要文化財建造物は、1895年から1985年までの91年間に、学術的調査を実施し、その成果に基づいた必要な保存修理を完了しており、良好に保存されている。近い将来大規模な修理事業の必要はない。
資産の境界は、寺院境内の歴史的なまとまりを尊重し、中国の仏教建築及び伽藍配置の影響ならびに日本のその後の仏教建築への影響を示す上で不可欠な建造物を全て含んでいる。
48棟の構成要素からなる資産範囲の保存状況は極めて良好であり、したがって、資産は全体性・無傷性の両方の観点から、完全性の条件を保持している。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(5. 世界遺産一覧表に記載する価値があることの証明 c) 資産の真実性)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(真実性)」引用です。
法隆寺地域の仏教建造物を構成する個々の国宝・重要文化財指定建造物は、歴代管理者の適切な維持・管理によって、意匠・材料・技術・環境のいずれにおいても創建以来の歴史を現在によく伝えている。
1895年から1985年までの91年間に行われた保存修理事業は、法隆寺地域の仏教建造物を近代的概念としての文化財として国が保存することを決定し、それによって最初に行われた大規模なものであった。この保存事業、とくに第Ⅱ期(1934〜1955)における解体をともなう調査と修理のなかで木造の歴史的建造物の修理の技術が確立した。そこでは、歴史的建造物、文化財としての真正性は次のように保証されている。
i)意匠の真正さ
各建造物の構造・形式には、近代以前の修理によって改造を加えられた箇所があるが、その多くは補強あるいは便宜的な用途の変更のためのきわめて部分的な変更であって、その建造物の歴史的な価値を表現している平面・構造・内外の立面意匠は創建当時のままである。
1895〜1985年の保存事業では、建造物の文化財としての価値を損ねている後補部分・後補材の撤去、欠失した部分や部材の復原が行われた箇所がある。しかし、これは材料・技術・各種痕跡の綿密な調査と類例研究の結果をふまえ、それを複数の学識経験者によって構成された修理委員会の討議に基づいて実施したものあって、いささかも推定によるものではない。
ii)部材の真正さ
法隆寺地上域の仏教建造物に限らず、日本の高温多湿な気候のもとで木造建造物は常に、腐朽・虫害、雨風による劣化・毀損の危険にさらされている。これら毀損した材は、伝統的に建物の構造の健全な保存のために新材に取り替えている。しかし、そうした危険にさらされている箇所は、柱根元・軒先・屋根材料・基礎など、主として周辺や末端部分に集中しており、その取替材部分もほとんどがそこに限定されているといってよいのであって、構造体の骨格的な基本部分と内部には当初材が残存するのが常である。また、日本の木造建造物は多数の同形式・同寸法の材を規格材のように使用することを特徴とし、そのための実際的な規矩・木割の技術が発達してきた。したがって、劣化・毀損しやすい周辺・末端部分の材、たとえば垂木や斗#などでも、当初材が必ずかなり残存している。このような木造建造物の毀損の状況や木造の歴史的建造物を支えてきた規矩・木割の技術は、欠失した部分や材のきわめて正確な復原を可能にする。
1895〜1985年の保存修理事業では、綿密に部材の毀損状況を調査し、毀損している柱では根継ぎ法で修理し、その他の部材では矧木や継木の技術を駆使し、新材による部材の取替を最小限に止める努力をはらった。やむなく取外した古い部材は、実測図を作成し、詳細な記録を作成し、かつ重要部材は保存庫で保存している。
iii)技術の真正さ
技術の真正さは部材の真正さと深く関係している。日本には伝統的に解体あるいは半解体という修理法があるが、これは日本の木造建造物が柱・梁による軸組構造であることと並んで、継手・仕口によるジョイント構法であるという事実に裏付けられている。このジョイント構法は、当初の技術や部材を損ねないで、建物を解体し、修理し、組み立てることを可能にしている。この点では、日本の木造建造物は、最初に建てるときから、後の解体修理を予想してつくられているということも可能かもしれない。
1895〜1985年の保存修理事業では、修理不可能な毀損部材を取替えたり、部材の欠失部分を復原している。その場合、新しい部材に当初のものと同じ樹種を採用するのはもちろん、さらに、当初部材の加工技法を研究し、当時の大工が使った道具(やりがんな)を復原し、これを用いて新部材を仕上げるなど、技術の真正さの保持にも最大の努力をはらっている。
iv)環境の真正さ
文化遺産に推薦する法隆寺地域の仏教建造物のほとんどは創建当初の位置を動いておらず、周囲の環境とともに良好に保存されている。この建造物の配置状況も重要な歴史資料と認識され、保存が図られている。
木造建造物は、放置すれば、毀損しやすいことは事実である。しかし、適切な管理と修理を行えば、大きく改変することなくそれを保存することが可能である。法隆寺地域の仏教建造物をふくめて、日本の歴史的建造物の修理事業における部分・部材の撤去や修理に伴う現状の変更には、イコモス国内委員会メンバー多数を含む研究者を主体とした文化財保護審議会における厳密な審査に基づく国の許可を必要としている。
1895年以降の保存作業は、その時代の保存実務における最高水準を保って行われてきた。特に、1934年以降、木造の構造物を保存するための新たな技術が開発され、解体と復原を伴う根本修理において木造建造物の保存に関する健全な先例が確立した。
日本における保存実務は、意匠、材料、技術及び環境の真実性に関して確立された原則に適合している。建造物に対する変更はきわめて部分的であり、歴史的な形式と特色を保持し、創建当初の特徴が保護されている。毀損した部材はやむを得ない場合に限り、伝統技法に則って、慎重に取り替えられている。新しい材料の使用は厳格に規制され、すべての事業計画は専門委員会の意見及び承認に基づくこととされている。復原や部材の取替においては、伝統的な木造建造物から標準化できる構造の規格を考慮し、憶測は最小限にとどめられる。また、修理では、伝統的な工具及び技法を用いることに特別な注意が払われている。48棟の建造物のほとんどが創建当初の位置を動いておらず、歴史的な環境を保持している。
全般的に、資産の真実性は、形態・意匠、材料・材質、伝統・技術、位置・環境の観点から、高い水準を保持している。
以下は文化庁の「文化遺産オンライン」サイトを参考にしています。青文字が「世界遺産一覧表記載推薦書(4. 資産の保護状態 d) 保存修復のための措置及び管理計画)」引用で、紫文字が「顕著な普遍的価値(OUV)の言明(保護・管理に係る要件)」引用です。
i) 法隆寺地域の建造物の管理
世界遺産に推薦する法隆寺地域の仏教建造物は、すべて国が文化財保護法により国宝・重要文化財に指定している、それらの維持管理や修理は所有者である宗教法人がおこなうが、必要な保存修理・防災などのための技術上の指導と財政補助は国が与えている。木造建造物について最大の問題である火災に対処するために、自動火災報知設備・消火栓設備・避雷針設備を設置し、法隆寺・法起寺による自衛消防隊を結成し、公共消防隊と協力する体制をつくっている。また、法隆寺区域は国が史跡に指定し、地上の建造物と地下の遺構の保存をはかっている。さらに、現地に法隆寺文化財保存管理事務所を設置し、それによって区域内の清掃や警備、樹木の手入れ、保存設備の維持管理などに当り、これにも国が一部分を財政的に援助している。
国宝・重要文化財ならびに史跡は国の許可なく現状を変更することはできない。国は建造物・地下遺構の保存や景観上の調和などに留意する方針によってそれに対応している。
指定建造物の大半は所有者である寺院が年間を通じて広く一般に公開している。また、法隆寺はそれが所蔵する美術工芸品や歴史資料の収蔵公開施設や来訪者用の駐車場を設け、公開活用を図っている。
ii) 緩衝地帯の管理
法隆寺地域とその緩衝地帯一帯は、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(古都保存法)」の規定に基づいて1966年に国が斑鳩町歴史的風土保存区域として指定し、また「奈良県風致地区条例」に基づいて1966年に奈良県が斑鳩風致地区として指定し、全域の歴史的風土と自然環境の保全を図っている。
歴史的風土保存区域のうち、法隆寺境内とその後背地の丘陵部はその特別保存地区に指定され、建築物の新築や宅地造成などの土地の形状を変更する行為を規制し、さらに必要に応じて土地の公有化をおこなう、その他の歴史的風土保存区域においても、歴史的風土の維持保存に反する行為を規制し、違反者を罰する規定がある。また、この区域のほとんどは都市計画では市街化調整区域となっている。
斑鳩風致地区は1〜3種に区分される。1種地区は歴史的風土の特別保存地区に一致し、建築物の高さ(最高8m)を制限し、緑化を図っている。また、その周辺にあたる2・3種地区についても、それぞれの基準を定めて風致保全のための罰則のある規制を行っている。
この地域を含む斑鳩町域については「都市計画法」に基づいて斑鳩町が都市計画区域と用途地域の指定を1989年におこなっている。推薦地域の全部と緩衝地帯のほとんどは市街化を抑制する区域である。緩衝地帯の南端にわずかにある市街化区域も、住宅地として文化遺産に調和した環境を保持することとなっている。
資産を構成する48棟の木造建造物は、文化財保護法の下に国宝・重要文化財に指定され、保護されている。また、それらを含む15.3ha の区域は、同法の下に史跡に指定され、保護されている。資産の現状を変更する場合には、事前に国の許可を必要とする。
資産の周囲には、適切な範囲の緩衝地帯(570.7ha)が設けられている。緩衝地帯は自然公園法、古都保存法、奈良県風致地区条例により開発の制限が行われている。
資産の管理責任は、所有者である宗教法人法隆寺と宗教法人法起寺にある。法隆寺では、保存修理技術者としての資質が認められた奈良県教育委員会職員が常駐し、修理工事の計画と監督にあたっている。資産の構成要素であるすべての建造物とその周辺の建築が木造であることから、それぞれの建造物には自動火災報知・消火・避雷の各設備が完備されている。加えて、法隆寺、法起寺とも自衛消防組織を結成し、公共消防機関との協力を図っている。
文化庁・奈良県・斑鳩町は、所有者に対して、保存管理に必要な財政的支援及び技術的指導を行っている。
法隆寺は、西院と東院と子院群で構成されており、世界遺産に登録されているのは47棟。そのうち8世紀以前に建造された金堂、五重塔、中門、回廊は、現存する世界最古の木造建造物です。
西院では、回廊の中に東西に金堂・塔を配置しています。聖域の中枢部を左右非対称とする構成は世界的にも珍しく、この伽藍配置は、多少の変更はありましたが、現在に引き継がれています。また、付属建造物も残っているため、古代仏教寺院の構成の全貌がほぼ完全に残っています。現在、金堂や塔など15棟が国宝、6棟が重要文化財に指定されています。
八角円堂である夢殿を本堂とし、その周囲を回廊が囲み、後方に伝法堂や僧坊が配置されています。夢殿をはじめ3棟が国宝、6棟が重要文化財に指定されています。
法隆寺子院は現在、西院の南と、西院と東院のあいだにまとまって残っています。本堂・客殿・門など17棟が重要文化財に指定されています。
世界最古の木造建造物の一つであり、国宝に指定されています。
飛鳥時代、百済から仏教が伝わり、廃仏派(物部氏)と崇仏派(蘇我氏)は衝突を繰り返しました。戦いは蘇我氏の勝利に終わり、ここから蘇我氏の独裁政治が始まりました。蘇我氏は強大な力を背景に女帝を誕生させました。それが推古天皇で、その時に摂政(政治のすべてを任された)の地位についたのが厩戸皇子(聖徳太子)です。厩戸皇子(聖徳太子)は仏教をより盛んにするために法隆寺(別名斑鳩寺)を建築しました。建立に関しては諸説あるものの、聖徳太子こと厩戸皇子が建立したことはほぼ間違いがないようです(「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という学説が唱えられて以来、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王子(聖徳太子)」という表現に変わっているようです)。
世界遺産として登録されているのは建造物ですが、他にも法隆寺が保有している国宝は美術品として20件あります。文化財の数え方は「件数」で、例えば「木造四天王立像」は四体まとめて一件と数えます。
世界遺産は私たちが過去から受け継ぎ、未来へ残すべき大切な宝です。 そこで世界文化遺産についてまとめてみました。
世界遺産には文化遺産と自然遺産と複合遺産があります。日本では慣例的に自然遺産を世界自然遺産と呼び、文化遺産を世界文化遺産と呼んでいるようです。
「1972年、ユネスコ総会で採択された『世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約』(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ物件のことで、内容によって文化遺産、自然遺産、複合遺産の3種類に分けられます」。建物や記念物、遺跡などは「文化遺産」地形や地質生態系などは「自然遺産」両方の性質をもったものは「複合遺産」となります。2023年10月現在、世界遺産は文化遺産933件、自然遺産227件、複合遺産39件の計1,199件が登録されています。
世界遺産に登録されるには、21か国の委員国で構成される「世界遺産委員会」での決定が必要となります。そのために、いくつもの手続きや調査が必要となります。
2023年現在、世界遺産条約締約国は195か国あります。条約締約国は、国内の世界遺産登録を目指す世界遺産暫定リストを作成し、世界遺産委員会へ提出します。
(総論)
1.以下の観点から顕著な普遍的価値を持つ可能性が高く、その保存と活用の施策を万全にする素地が整っており、かつ、過年度の世界文化遺産部会において示された課題への対応に十分な進捗が見られること。
(比較分析・評価基準)
2.学術的調査の成果により、人類全体のための遺産として世界又は東アジアの観点から高い価値を持つ可能性が高いこと。また、『世界遺産条約履行のための作業指針』が示す(i)から(vi)の評価基準のうち、適切な評価基準が選択されていること。
(真実性)
3.主張する価値及びそれを証明する構成資産の特性に照らして、真実性が担保されていること。
(完全性)
4.完全性の観点から、主張する価値を証明するのに過不足ない構成資産及び資産範囲であること。さらに、資産に対する潜在的な脅威が適切に認識され、有効な対策が示されていること。
(資産保護)
5.原則として文化財保護法に基づく指定・選定により、構成資産が十分な保護措置を受けていること。
(周囲の環境保全)
6.資産周囲の良好な環境を保全・形成するための施策が講じられていること(例えば遺産影響評価の仕組み導入、歴史的風致維持向上計画や文化財保存活用地域計画の策定など)。
(管理体制)
7.上記5及び6の取組を実現するための包括的保存管理計画が策定されていること。また、関係自治体・関係部局の盤石な連携体制が構築されており、将来にわたりその取組・体制を継続・発展させていくことが明言されていること。
(地域コミュニティ)
8.地域コミュニティを含む関係者の一体的な協力体制が構築されていること。
(地域活性化)
9.来訪者管理戦略や情報提供戦略等に基づいて、地域が主体となった資産の活用策が講じられていること。
(持続可能な発展)
10.将来にわたって資産保護と地域の持続可能な発展との両立が期待できること。
文化庁文化審議会世界文化遺産部会「世界文化遺産に推薦する資産を選定する基準」より引用
推薦書を提出すると、諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)またはIUCN(国際自然保護連合)による現地調査・書類審査・評価の審査を受けることになります。
登録の可否については、諮問機関が以下の4つの区分で勧告を行い、それを踏まえて最終的には世界遺産委員会において決定します。
(ア)記載 : 世界遺産一覧表に記載するもの
(イ)情報照会 : 追加情報の提出を求めた上で次回以降に再審議するもの
(ウ)記載延期 : より綿密な調査や推薦書の本質的な改定が必要なもの(再度イコモスの審査を受ける必要があるもの)
(エ)不記載 : 記載にふさわしくないもの
21か国から成る世界遺産委員会において価値や保存管理体制が認められれば登録が決定します。
世界遺産に登録されるには以下の登録基準に一つ以上あてはまらなければなりません。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
上記基準(i)~(vi)で登録された物件は文化遺産、(vii)~(x)で登録された物件は自然遺産、文化遺産と自然遺産の両方の基準で登録されたものは複合遺産とします。
(参考:日本ユネスコ協会連盟HPより引用)
上記全ての基準を満たす世界遺産は今のところありません。文化遺産では6項目全てが適用された物件は莫高窟(中国)、泰山(中国)、ヴェネツィアとその潟(イタリア)の3件のみです。また、自然遺産で4項目全てが適用された物件は、バイカル湖(ロシア)、カムチャツカ火山群(ロシア)、雲南三江併流の保護地域群(中国)、グヌン・ムル国立公園(マレーシア)、グレート・バリア・リーフ(オーストラリア)、タスマニア原生地域(オーストラリア)、クイーンズランドの湿潤熱帯地域(オーストラリア)、西オーストラリアのシャーク湾(オーストラリア)、テ・ワヒポウナム-南西ニュージーランド(ニュージーランド)、イエローストーン国立公園(アメリカ)、グランド・キャニオン国立公園(アメリカ)、グレート・スモーキー山脈国立公園(アメリカ)、クルアーニー/ランゲル-セント・イライアス/グレーシャー・ベイ/タッチェンシニー-アルセク(アメリカ、カナダ共通)、タラマンカ地方-ラ・アミスター保護区群/ラ・アミスター国立公園(コスタリカ、パナマ共通)、リオ・プラタノ生物圏保護区(ホンジュラス)、ガラパゴス諸島(エクアドル)、サンガイ国立公園(エクアドル)、カナイマ国立公園(ベネズエラ)、メイ渓谷自然保護区(セーシェル)、ンゴロンゴロ保全地域(タンザニア)の20件あります。
文化遺産については以下の分類があります。
「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件及び構造物、金石文、洞穴住居並びにこれらの物件の組合せであって歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。少しわかりにくいですね。そこで日本での文化遺産について調べてみると下記のような記述がありました。
日本における記念物の扱い(文化財保護法第2条第1項第4号より)
「貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとって歴史上又は学術上価値の高いもの、庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地で我が国にとって芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む。)、植物(自生地を含む。)及び地質鉱物(特異な自然の現象の生じている土地を含む。)で我が国にとつて学術上価値の高い遺跡、名勝地、動植物および地質鉱物を「記念物」としています。」
これを見ると、お寺などの庭園などは記念物の扱いになるようです。
「独立し又は連続した建造物の群であって、その建築様式、均質性又は景観内の位置のために、歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。
日本では法隆寺地域の仏教建造物、姫路城など多くの建造物が世界遺産に登録されています。
「人工の所産(自然と結合したものを含む。)及び考古学的遺跡を含む区域であって、歴史上、芸術上、民俗学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの(文化遺産 (世界遺産) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」と定義されます。
この分類の代表として、クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア)、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(タンザニア)、フィリピン・コルディリェーラの棚田群などがあげられています。
世界遺産登録基準(vii)に当てはまるものがこれに当たります。
日本の自然遺産では「屋久島」がこれにあたります。
世界遺産登録基準(viii)に当てはまるものがこれに当たります。
日本の自然遺産では今のところこれに当てはまる自然遺産はありません。
世界遺産登録基準(ix)に当てはまるものがこれに当たります。
日本の自然遺産では「知床」「白神山地」「小笠原諸島」「屋久島」がこれにあたります。
世界遺産登録基準(x)に当てはまるものがこれに当たります。
日本の自然遺産では「知床」「屋久島」がこれにあたります。
日本では2023年10月現在、文化遺産20件、自然遺産5件の計25件登録されています。複合遺産の登録はありません。ちなみに無形文化遺産については世界遺産とは扱いが違います。2018年に登録された来訪神などは無形文化遺産で、世界遺産とは扱いが違いますので、ここには含まれません。無形文化財の扱いについては2003年にユネスコで採択されたようです。
今後まだまだ増えていくと思われます。また、登録されても、登録基準を満たさなくなったものは削除されることもあります。
世界遺産に限ったことではありませんが、歴史的建造物や美しい自然は次の世代に、そしてまた、その次の世代へとずっと残していきたい地球の財産であると思います。
登録基準この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。基準(6)のみの適用で登録されているのは例外的なケースだが、比較的歴史の浅い負の世界遺産にはしばしば見られる傾向である。
『原爆ドーム出典』: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[面積]
広島に原爆が投下されたことはあまりにも有名ですが、原爆ドームは、その際破壊された「広島県産業奨励館」の残骸を、当時の姿のまま今日に伝える資産です。従い、人類が初めて被った核兵器の惨禍の跡を留める資産であり、人類が忘れることのできない歴史的記念的意義を有する資産として、世界遺産条約第1条の規定する記念工作物に該当しています。
公園内には広島市の管理事務所があり、文化財保護の担当機関である市教育委員会との連携を取りつつ、ドームの日常管理を行っています。
ドームをはじめ、犠牲者を慰霊する記念碑等には、それぞれ説明板が設けられ、平和記念公園内の広島平和記念資料館には、被爆の惨状を示す犠牲者の遺品等が多数展示されています。また、諸種の国際交流活動のために広島国際会議場が設置されています。
そのほか、公園内には、休憩施設が1箇所、公衆便所が5箇所、駐車場が2箇所設けられています。
戦前
広島市は、中国山地から南流する太田川の三角州を中心に発達した都市であり、南は瀬戸内海に面し東・北・西は山地に囲まれ、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に日露戦争を契機として、大量の軍需品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。1910年、広島県会は同県の産業振興のため、広島県物産陳列館の建築を決定し、設計をチェコ人の建築家ヤン・レツルに委嘱して1914年太田川の分流元安川の東岸に起工、1915年に竣工しました。その後、名称を広島県産業奨励館と改められています。ここは博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場としても大きな役割を担っていました。
戦時
日本は1930年代から中国と戦争状態にあり、第2次世界大戦の開始後、1941年には太平洋及びアジア各地に戦域を拡大していきました。1945年になると、アメリカ軍による本土爆撃の激化や沖縄上陸によって、日本の敗色は濃くなっていきました。アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言発表の後、8月6日広島市に原子爆弾が投下されました。テニアン島を発進した米軍 B29爆撃機3機が広島市上空に侵入し、午前8時15分に原子爆弾を投下しました。爆弾は上空約 580メートルで爆発し、爆風と猛火により、爆心地から半径約2キロメートル以内の建物は木造も鉄筋コンクリートもすべて全壊・全焼し、半径約2.8 キロメートル以内の建物が全壊、半径約4キロメートル以内の建物が半壊しました。これは、当時の広島市のほとんど全域が半壊以上の損害を受けたということです。
「広島県産業奨励館」は、広島市内の元安川東岸に建つ、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、全体は3階建て、石材とモルタルで外装が施され、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。原爆により、建物 の屋根や床はすべて破壊され、壁は建物の大部分において1階の上端以上が全て倒壊しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れましたが、この建物の中にいた約30名の職員は全員即死しました。
参考:文化遺産オンライン
本館と東館に分かれていて、本館は2006年、わが国の戦後建築物としては初めて、国の重要文化財に指定されました。東館は1955年に開館した「広島平和記念館」を改築し、1994年に、「広島平和記念資料館(東館)」として開館しました。
本館と東館は、渡り廊下で繋がっており、本館を中心に、資料館東館と西側の国際会議場がシンメトリーとなっています。
3月~ 7月/8:30~18:00
8月 /8:30~19:00(8月5日、6日は20:00まで)
9月~11月/8:30~18:00
12月~ 2月/8:30~17:00
※入館は閉館時刻の30分前までです。
12月30日・31日
※ただし、情報資料室は12月29日~1月1日まで
展示入替期間(2月中旬から3日間)
駐車場無し
1989年に、国際交流の推進と市民文化の向上を図ることを目的として設置されました。約1500人収容のフェニックスホールをはじめ、国際会議ホールや大小会議室があり、これまでに国連と軍縮シンポジウム、国連軍縮会議、世界平和連帯都市市長会議、女性国際平和シンポジウム等多くの国際会議で利用されています。2023年には、広島国際会議場及び平和記念公園内の利便性と魅力を向上させることを目的として、広島国際会議場の旧国際交流ラウンジ区画にカフェが設置されました。
2021年に東京2020オリンピック聖火リレーセレブレーションの会場になったほか、 2023年5月に開催されたG7広島サミットでは二か国間首脳会談や各国の記者会見会場となりました。
被爆者を追悼する国立の施設で、2002年に「原爆死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するとともに、原爆の惨禍に関する全世界の人々の理解を深め、被爆体験を後代に継承することを目的」として設置されました。建物は、地下2階構造で、地下1階は情報展示コーナー及び体験記閲覧室が、地下2階には平和祈念・死没者追悼空間及び遺影コーナーが設けられています。原爆死没者の遺影のほか、被爆者による体験記や証言映像、郷土や原爆、平和に関連する書籍を収蔵し、利用者に公開しています。
3月1日~7月31日/ 8:30~18:00
8月1日~8月31日 /8:30~19:00(8月5日、6日は20:00まで)
9月1日~11月30日/8:30~18:00
12月1日~2月末日/8:30~17:00
12月30日・31日
貸し出し用の車いすが3台あります。
地下1階に、100円リターン式のコインロッカーが12台あります
館内には休養室(地下2階)があり、具合が悪くなった場合は、総合案内(地下1階)または警備員に声をかけると、案内してくれます。
原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるものであり、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑です。統計によると、資料館への来訪者は年間約140万人、うち約45万人が平和学習のために訪れる修学旅行生、約7万人が外国人だといいます。ここに訪れたことのない人でも、ここの映像や写真を見ていることでしょう。
原爆ドームの存在が、戦争を憎み、再び、未来永劫この惨劇を繰り返してはならないと世界に向けて発信していると感じますし、これからもずっとその存在価値を発揮してほしいと思います。
※タイトルで負の世界遺産としていますが、この「負の」と謳われているのは日本だけです。世界的には「負の」という考え方はありませんのでここに記載しておきます。
「吉野山」は、吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称であり、金峯山寺を中心とした神社や修験道の寺院、宿坊、商店などが立ち並ぶ地域でもあり、その全域が世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録資産となっています。周囲には桜の林が広範囲に分布しています。これは、霊木である桜を献木するという宗教行為によって植え続けられてきたもので、古くから日本一の桜の名所として知られ、吉野山の谷から尾根を埋める桜はおよそ3万本。麓から下千本、中千本、上千本、奥千本と順に開花し、下の千本は吉野山でも最も古くから有名な桜の群落です。
山全体が世界遺産になっている吉野山には、修験道の寺をはじめ、歴史ある神社仏閣が数多く残っています。
金峯山修験本宗の総本山で、修験道の祖・役行者が開いたと伝えられています。
金峯山寺は世界遺産の登録資産となっています。
金峯山寺の国宝「蔵王堂」と国宝「仁王門」重要文化財「金峯山寺銅鳥居」が世界遺産の登録資産となっています。
金峯山寺の本堂。創建以来、焼失と再建を重ね、現在のお堂は1592年ごろに完成した、高さ34m、四方36mの、木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っています。
金峯山寺蔵王堂の北側の正門にあたる仁王門は、大阪や京都から逆峯入りする信者を迎えるため、北を向いています。三間一戸、人母屋造り、本瓦葺の楼門で、高さは20.3mあります。現在の建物の下層は南北朝期、上層は康正年間の建造と推定されており、金峯山寺に残る諸堂の中で最も古い建造物です。
高さ約7.5mの銅製の大鳥居で、吉野山から山上ヶ岳(大峯山)まで発心・修行・等覚・妙覚の4門あるうちの最初の門で、正しくは発心門といいます。
かつては吉水院(きっすいいん)といい、修験宋の僧房の一つでしたが明治時代の神仏分離令で吉水神社と改められました。
吉水神社は世界遺産の登録資産となっています。
吉水神社の重要文化財「吉水神社書院」が世界遺産の登録資産となっています。
日本最古の書院建築として世界遺産の登録資産の一つとなっています。後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間、太閤秀吉花見の間などがあります。
10世紀初めに真言宗のお寺として建立されました。のちに後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ、その後、江戸時代に真言宗から浄土宗へと改宗されました。
TEL:0746-32-3008(受付時間 9〜16時)
分水嶺に対する信仰を祭祀の起源とする神社で、社殿は本殿・拝殿・弊殿・楼門・回廊(いずれも重要文化財)からなり、現在の社殿は秀吉の意志を継いだ秀頼によって1604年に再建されたものです。
吉野水分神社は、世界遺産の登録資産となっています。
「みくまり」が「みこもり」となまり、子授けの神として信仰されています。
TEL:0746-32-3012
吉野山の地主神、金山毘古命を祭神とする明神大社です。
金峯神社は、世界遺産の登録資産となっています。
境内左横を下った所に、追っ手に追われた義経が弁慶らと身を隠したという「義経隠れ塔」があります。
吉野水分神社:0746-32-3012
現在の本堂は、江戸時代の建立で、その後拡張されて現在の規模になりました。
大峯山寺は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の1つです。
宗教的な理由から今なお女人禁制を守り続け、女性の入山は禁止されています。
TEL:0747-64-0001(龍泉寺)
聖徳太子が開き、空海も参籠したといわれる修験寺院。池泉回遊式の借景庭園の群芳園は、千利休が作庭し、細川幽斎が改修した庭園です。大和三庭園(慈光院、當麻寺中之坊庭園)の一つで、宿泊も可能です。
「じゃらん」で宿泊予約できるようです。
公式サイトはこちらです。
公式サイトが一番お得。ベストレート保証・吉野山 旅館 竹林院群芳園 「公式サイト」
TEL:0746-32-8081
FAX:0746-32-8088
桜の時期は電車での移動をお勧めします。駐車場はすぐに満車になるそうです。また、有料バスや臨時バスもあります。
吉野山の玄関口で、標高は約230m~350m。近鉄吉野駅あたりから金峯山寺あたりまでを言います。
下千本駐車場の場所
金峯山寺あたりから竹林院あたりまでで標高は約350m~370m。下千本駐車場から歩いて15分ほどです。
竹林院あたりから吉野水分神社あたりまでを言い標高は約390m~600m。急な坂道が続きます。桜の時期には吉野山各所から有料バスや臨時バスに乗ることで行くことが可能です。
金峯神社より上で西行庵あたりまでを言い標高は約600m~750m。最も遅く見ごろを迎えます。
標高570mに位置し、吉野山全体が眺められる展望台で、吉野山の中でも特に眺めの良いスポットとして知られています。
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山1711
吉野山下千本エリアにある展望所で、ベンチも備えられています。明治天皇の皇后の昭憲皇太后が吉野山の桜を眺望された場所で、七曲りを眼下に下千本を一望できます。
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山
境内の庭園から見渡せ、如意輪寺すぐ近くを通る観光車道からの眺めもおすすめです。バス停如意輪寺口から徒歩10分。駐車場もあります。
吉野山の中でも一番山奥にあり、桜を愛した歌人・西行法師が武士を捨て、法師となり3年間侘住まいをしたとされます。
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山639−3115
桜の名所は秋の景色も絶景です。「桜紅葉」という言葉もあるとおり、桜は古くから紅葉も観賞されてきました。楓の紅葉よりも半月ほど早く紅葉の見頃を迎えます。桜の品種の中でも桜紅葉が美しいのがソメイヨシノです。ソメイヨシノは紅葉するタイミングが比較的揃っているため、一斉に赤や黄色に色づき、見ごたえある桜紅葉となります。桜紅葉が美しい木もあれば、色づく前に散る木もあります。シダレザクラなどは色づく前に茶色く枯れて散ることが多く、葉のサイズも小さめです。桜で有名な吉野山ですが、紅葉も見ごたえがあるようです。
2000年、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産暫定国内リストへの記載が決定し、2001年にユネスコの世界遺産暫定リストへの記載が決定しました。2004年7月7日に世界遺産(文化遺産)に記載され、日本では12番目の世界遺産となりました。2016年10月24日、パリのユネスコ本部で開催された世界遺産委員会臨時会合で、軽微な変更提案が承認され、参詣道の距離が当初の登録時から40.1km拡張され、総延長347.7kmとなりました。和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野参詣道)が登録対象となっています。
顕著な普遍的価値の評価基準10項目のうち(2)(3)(4)(6)に該当し、「文化遺産」に登録されています。
世界遺産登録基準(2)(3)(4)(6)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。具体的には、
(2) 紀伊山地の文化的景観を形成する記念碑と遺跡は、神道と仏教のたぐいまれな融合であり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を例証する。(3) 紀伊山地の神社と仏教寺院は、それらに関連する宗教儀式とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展に関するひときわ優れた証拠性を有する。
(4) 紀伊山地は神社・寺院建築のたぐいまれな形式の創造の素地となり、それらは日本の紀伊山地以外の寺院・神社建築に重要な影響を与えた。
(6) と同時に、紀伊山地の遺跡と森林景観は、過去1200年以上にわたる聖山の持続的で並外れて記録に残されている伝統を反映している。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
紀伊山地は人が分け入ることが困難な山岳地であることから、神仏が宿る場所とみなされ、崇拝されてきました。三霊場「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」は、自然崇拝に根差した「神道」と、中国大陸や朝鮮半島から伝来した「仏教」の融合によって「神道」「真言密教」「修験道」と独自の発展をし、ともに参詣道が形成・整備され、それらが良好な状態で残されていることと、信仰の文化が今も生き続けていることが評価されました。
「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する三霊場は「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」で「大峯奥駈道」「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」「高野山町石道」の参詣道が含まれ、それぞれの信仰の特徴を表す複数の記念工作物、遺跡、文化的景観が含まれます。
和歌山・奈良・三重の三県にまたがる資産の面積495.3haと、さらにその周囲に保護のために設けられた緩衝地帯11,370haを合わせて11,865.3haには、国宝4件、重要文化財23件の建造物をはじめ、史跡7件、史跡・名勝1件、名勝1件、名勝・天然記念物1件、天然記念物4件、合計41件の文化財が含まれます。
紀伊山地は自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀の仏教伝来以降、真言密教を始めとする山岳修行の場となりました。特に修験道は、大峰山系の山岳地帯が発祥の地とされています。また、9~10世紀の「神仏習合」思想*1、10~11世紀頃の「末法思想」*2、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」の教えなどの信仰がこの地を神聖化しているようです。深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などの地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。
紀伊山地中央の北部から中部の大峰山脈の山岳地帯にあり、三霊場の中で最も北に位置しています。北部を「吉野」、南部を「大峯」と呼び、10世紀中頃には、日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどに、崇敬されるようになっていました。「吉野」は7~8世紀の都であった奈良盆地の南に位置し、古代から山岳信仰の対象となっていました。修験道の開祖とされる「役行者*3」縁の聖地として重視され、今もなお全国から修行のため多くの修験者が訪れています。神道と修験道に関連する記念工作物や遺跡が数多く残されました。「大峯」は、吉野と「熊野三山」との間を結ぶ大峰山脈の総称で、山岳での実践行を重んじる修験道では山での苦行の有名な舞台となっていました。
吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺で構成され、大峰奥駈道で熊野と結ばれています。
16世紀後半に焼失、17世紀後半に再建に着手し、1703年完成しました。峻険な山頂に建つものとしては他に類例がなく、1983年から86年に修理した際の発掘調査では宗教儀式の遺構や祭器、仏像、鏡、経巻などが出土しています。
1973年6月2日、重要文化財に指定されています。
紀伊半島南部に位置し、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺と「那知大滝」「那知原始林」からなり、「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれています。古くから神々が宿る場所として崇拝され、中国大陸や朝鮮半島から伝来した仏教と融合し、独自の発展を遂げました。三社はそれぞれ個別の自然崇拝に始まり、お互いに他の二社の祭神を祀るようになり「熊野三所権現」と呼ばれるようになりました。平安時代には「末法思想」が流行り「浄土信仰」の考え方が広まり、熊野三山は「浄土への入り口」とされ、浄土へお参りし、帰ってくるということで、死と再生を意味し、「よみがえりの聖地」として信仰を集めました。霊場を構成する社寺には神道、仏教、修験道、神仏習合に関連する記念工作物や遺跡が遺され、信仰の起源となった自然の景物を含む周辺地域と共に一体の文化的景観を構成しています。
かつては「熊野坐神社」とよばれ、熊野川の中州に鎮座していましたが、1889年の熊野川水害時に羅災し、流失を免れた主要社殿3棟を1891年に現在の場所に移築し再建しました。 2011年、紀伊半島大水害により、再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けましが、2014年には瑞鳳殿が再建されています。熊野三山の1つとして熊野十二所権現を祀っています。
水害以前、1801~1807年再建時の部材が大部分を占め、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群となっています。11世紀の参詣者の日記や1299年に描かれた絵画によって確認できる伝統的な形態を保持しています。
1995年12月26日、重要文化財に指定されています。
熊野本宮大社の旧社地及び付属寺院の遺跡で、熊野川の中洲にあり、19世紀の切石積の基壇が遺され、その周囲の森林はかつて塔や護摩堂といった仏教施設が置かれていたところで、神仏習合の遺跡として貴重なものとなっています。
旧社地大斎原から熊野川を南に渡った対岸の備崎にあり、岸の丘陵にある経塚の群集遺跡です。
発掘調査により数多くの経塚が分布することが確認されています。19世紀には1121年の刻銘のある、わが国最大の陶製外容器が出土しています。
現在の社殿は1883年に炎上し、その後1951年再建された境内を中心に、背後の「権現山」と熊野川に浮かぶ「御船島」及び「御旅所」を含んで指定されています。神倉山中腹には、祭神が降臨したとして信仰される巨岩(ゴトビキ岩)を御神体とする「神倉神社」があります。ゴトビキ岩は山の斜面にヒキガエルの姿で鎮座する巨岩で、その周辺からは、3世紀の銅鐸をはじめ、12世紀を中心とする経塚が多数発見されています。また、この神倉神社で熾した神火を松明に移し山を駈け下る「熊野御燈祭」は原始信仰を受け継ぐ祭礼として、和歌山県の無形民俗文化財に指定されています。
境内には推定樹齢800年を誇る古木で、神木とされる天然記念物の「ナギの木」が壮大な樹冠を広げています。これは、1159年の社殿再建の際に平重盛が植えたものと伝えられています。 基部の幹周りが約5.45m、目通りの幹周りが約4.45m、高さが約 17.6mの老巨木である。樹幹の表面には縦溝がみられ、中軸をなす主幹がないことなどから、1株ではなく数株が合着して現在見る姿になったと考えられている。
那智山の中腹標高約500mの地点にあり、那智大滝に対する自然崇拝を起源とする神社です。熊野三山を構成する三神社の一つで、熊野十二所権現を祀るほか、那智大滝を神格化した「飛瀧権現」を併せて祀っているため、十三所権現とも呼ばれています。
主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。
1853に再建されたもので、熊野独特の建築様式を保つ神社建築群です。1299年に描かれた絵画によると、再建された社殿は以前のものと形式がほとんど変わっていないことが分かっています。
社殿は熊野本宮大社や熊野速玉大社のように横一列に並ばず、三所権現をはじめとする主要五社殿と八社殿及び御県彦社が矩折して配置され、他の二山と違い、御瀧の神様を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。
1995年12月26日、重要文化財に指定されています。
1868年以前は、那智の滝を中心にした那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展しましたが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離しました。
約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路である「西国三十三所観音霊場巡礼」の第一番札所であり、今も観音信仰の中心的霊場として多くの巡礼者が参詣しています。
4世紀ごろ、インドの僧が開山し、豊臣秀吉が1590年に再建した素木造りの建築で、桃山時代の特徴を色濃く残しています。
1904年2月18日、重要文化財に指定されています。
本堂の北にあり、標高4.3mの、蓮花付きの台座上に台石を置き、台石には1322年に尼僧が願主となって造立した旨の銘文が刻まれています。
1953年3月31日、重要文化財に指定されています。
那智大滝は「一の滝」とも呼ばれ、那智山の森林を水源とする高さ133m、幅13mの一段の滝としては日本一の落差を誇る滝です。銚子口の岩盤に3つの切れ目があって、三つの落口から流れ落ちるところから「三筋の滝」ともよばれています。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地で、熊野那智大社、青岸渡寺の信仰の原点であり、また信仰の対象そのものでもありました。
那智大滝の東側一帯に広がる温帯性と暖温帯性の植物が入り混じる約33.5haの常緑広葉樹林(照葉樹林)で、古くから熊野那智大社の神域として保護され、滝と一体となり、自然信仰に関連する文化的景観の典型です。
那智大滝を約6㎞下った、2本の参詣道が合流する海岸近くに位置し、観音浄土である「補陀落山」に渡海する補陀落渡海信仰の拠点であった寺院です。
標高800メートルの山上盆地に、816年、空海が真言密教の道場として「金剛峯寺」を創建し、信仰を集めてきました。現在も金剛峯寺と117の寺院が密集し、山岳宗教都市としての文化的景観を作り出しています。
「金剛峯寺」をはじめ、「慈尊院」「丹生官省符神社」「丹生都比売神社」からなり、それぞれが参詣道である「高野山町石道」で結ばれています。
古来から高野山を含む紀伊山地北西部一帯の鎮守社として知られ、高野山金剛峯寺と密接な関係を保ってきた神社です。
仏教関連の堂舎多数が存在しましたが、明治初年の神仏分離令により仏教関連施設は撤去され現在は神道関係施設だけが残されています。ただ、鳥居は両部鳥居となっていて、これは神仏習合の神社に多くみられ、その名残ともいえるでしょう。
高野山地域の地主神及び他地域から勧請された神々を祀る神殿で、第一殿から第四殿が左右に並んで社殿を構えています。2014年の「平成のご造営」の修復工事で本殿の塗装を江戸初期の配色に戻しています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
神殿の前の大規模な木造楼門で、室町時代に建立された入母屋造・檜皮葺きの堂々とした楼門です。一般のご参拝はこの楼門前からとなります。
1908年4月23日、重要文化財に指定されています。
総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺で、東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広さを有しています。「伽藍地区」「大門地区」「金剛三昧院地区」「徳川家霊台地区」「本山地区」「奥院地区」の6つの地区からなり、真言密教の根本道場として信仰を集めてきました。
壇上伽藍とも呼ばれ、空海が高野山を開創する際に最初に着手した場所です。高野山の中心となる地区で、もともと南北中心線上に中門と金堂を配し、その後方に東西に並んで東に胎蔵界を表す根本大塔を、西に金剛界を表す西塔を置くという真言密教の教義を現した独特の伽藍配置となっていました。
髙野山としては、いちばん大切な鎭守であって、丹生明神社、髙野明神社、総社の三棟からなり、今の建物は1521年の火災後に再建されたものです。本殿は向って右から「丹生明神社(一の宮)」「高野明神社(二の宮)」そして左端に「総社(三の宮)」が並んで建っています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
1198年、鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により創建、14世紀前半に建て直されました。鎌倉時代の和様建築で、平安期住宅様式を仏堂建築に応用したもので、本尊は、不動明王、脇侍は運慶作の八大童子です。
不動堂は1952年3月29日、国宝に指定されています。
金剛峯寺を創建した僧空海が、生前自ら墓所と定めた場所を中心として、転軸・摩尼・楊柳の三山に囲まれた広大な集合墓地が営まれている地区です。空海が「即身成仏」を果たし、今もなお生き続けていると信じられている聖地で、全国各地から各階層の人々が継続的に建立した大小の石造五輪塔は20万基以上ともいわれ、現在も墓碑の建立が続いています。これら墓碑群と禁伐のスギ林が、深遠な文化的景観を形成しています。
空海の墓所である弘法大師御廟の東にあり、石田三成が1599年に母の菩提のため建立し、「高麗版一切経」が納められました。
1922年4月13日、重要文化財に指定されています。
常陸国佐竹藩主であった佐竹義重の霊屋(たまや)で、屋根は切妻造、檜皮葺きで、外面は、木造の卒塔婆型の角材で、正面、側面、背面と47本建て並べて壁にしており、極めて珍しい霊屋となっています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
徳川家康の側室で、「お万の方」と、その子、秀康の霊屋で、秀康霊屋内には宝篋印塔五基が、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
上杉謙信、景勝の木造霊屋です。1966年、解体修理が施され、屋根を檜皮葺に復旧しました。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
高野山全体への入口になる総門である大門が建つ地区で伽藍地区の西側に位置します。
高さ25.8m金剛峯寺の正門で、日本国内で最大級の木造二重門となっています。12世紀の創建以来焼失と再建を繰り返し、現在の建物は1705年再建されたものです。その後修理が行われ、1986年には、全面解体修理が施され、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻されました。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
金剛三昧院を中心とする地区で、金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫の源頼朝と子実朝の菩提を弔うため建立しました。
高野山の霊場化が、有力な貴族や武家による山上祈願所の寄進や建立によっても促進された事を示す事例として代表的なものです。
多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。多宝塔としては、鎌倉初期の建立とされる滋賀県大津市の石山寺の多宝塔についで古く、多宝塔発祥の地、高野山では最古の物です。多宝塔の内部は須弥壇(しゅみだん)と言われる壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる五智如来(ごちにょらい)像が安置されています。
1952年11月22日、国宝に指定されています。
経典の収蔵庫として建てられたもので、建築様式は校倉造りで、鎌倉時代初期の校倉造りの建立物としては現存状態が非常によく、この時代のものは他に例が少なく価値のあるものとなっています。
1922年4月13日、重要文化財に指定されています。
金剛三昧院の境内に鎮守として祀られている神社で、 四ヶ所の明神様をお祭りしているので、四所明神と言われています。高野山上の奥の院と麓の天野社の神仏習合の宗教形態の典型を示しています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
参詣者の応接及び宿泊を目的に建てられた木造建築で、桁行34.3メートル、梁間18.9メートル、一重、入母屋造で屋根は檜皮葺きとなっています。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
徳川幕府の初代将軍家康と2代将軍秀忠の霊屋を中心とする地域
江戸幕府初代将軍徳川家康(東照宮霊屋)と2代将軍秀忠(台徳院霊屋)の装飾華麗な木造霊屋が2棟並び、それぞれが透塀で囲まれ、正面に唐門があります。
1926年4月19日指定、重要文化財に指定されています。
金剛峯寺は1869年に青巌寺と興山寺を一本化したもので、今では高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の本坊が置かれ、宗務上の中心地となっています。現存する建物の多くは1862年に再建された青巌寺のもので、大主殿、奥書院を中心に、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、山門などが立ち並ぶ高野山上で最も規模の大きな木造建築群を構成しています。
慈尊院は、816年、弘法大師が創建した寺で、高野山参詣の表参道の玄関口として伽藍を創建し、参詣者が一時滞在する場所ともなっていました。女人高野とも呼ばれ、女性の参拝の多い寺院です。
本尊である弥勒仏坐像を安置する本堂です。高野山が女人禁制だったことから、訪れた空海の母もここで逗留し、母の没後に弥勒菩薩を安置し祀ったということです。鎌倉時代後期の建築で、方三間(6.39m)、宝形造、桧皮葺の建物です。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として丹生明神、高野明神の2明神を祀り、後に厳島明神・気比明神の2神を合祀し「四所明神」を祀るようになりました。慈尊院とともに空海が創建したもので、境内がつながっています。
地主神及び地方から勧請された神々を祀る神殿で、室町時代後期の1517年再建の2棟と、1541年再建の1棟、社殿3棟からなります。
1965年5月29日、重要文化財に指定されています。
三つの霊場に至る参詣道ならびに三つの霊場を相互に結ぶ参詣道で、大峰奥駈道、熊野参詣道、高野参詣道からなり、保存状態の良い部分が国の史跡に指定されています。道の大部分は幅1m前後と狭く、石畳や階段となっている部分もありますが、多くは山中の土の道で、沿道の山岳や森林と一体となった文化的景観を形成しています。
大峯奥駈道は、吉野・大峯と熊野三山を結ぶ修験者の修行の道で、標高2,000m級の山々が連なる大峰山脈の主稜線を踏破するように拓かれ、全行程約170kmに及び、修験道の最も重要な修行の場となっています。このうち約86.9kmが世界遺産として登録されています。 修験道の祖とされる役行者が8世紀初めに開いたとされ、修験道の最も重要な修行の場となっていた大峯奥駈道は、道の途中の行場で「宿」と呼ばれる信仰上の拠点が約120カ所設けられていましたが、17世紀になると75ヵ所の「靡」に整理されました。修験者にはこの奥駈が義務付けられ、回数を重ねることが重要とされているため、今も修験者の団体が毎年奥駈を実施しています。
2002年12月19日、史跡に指定されています。
大峰山脈の最高峰である仏経嶽を中心に約3㎞の尾根上にシラビソ林が亜高山性の常緑針葉樹林を形成しています。そのうち、約9haのシラビソ林が国の天然記念物に指定されています。
モクレン科の落葉低木で、八経ヶ岳を中心に、シラビソ林の林床や林縁にオオヤマレンゲが大群落を形成していますが、最も密度の高い弥山から八経ヶ岳を経て明星ヶ岳との鞍部に至る約108haのエリアが天然記念物に指定されています。
1804年、玉置神社の別当寺・高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、 神仏分離後は社務所・台所および参籠所(さんろうじょ)として使用されています。
1988年1月13日に重要文化財となりました。
霊場「熊野三山」への参詣のために中世・近世を中心に利用された道で、時代と地域によって「熊野参詣道」「熊野古道」「熊野御幸道」など様々な名称で呼ばれてきました。「熊野三山」は、京都からも日本の各地からも遠い紀伊半島南東部に位置するため、参詣者のそれぞれの出発点に応じて複数の経路がありますが、大きく「紀伊路」「伊勢路」「小辺路」の3つの経路に分類されます。「紀伊路」は途中で紀伊半島を横断して山中を通る「中辺路」と、海岸沿いを通る「大辺路」の二本に分岐します。この、「中辺路」「大辺路」「小辺路」「 伊勢路」の4 ルートが世界遺産に登録されています。
京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路のうち、田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かう、最も頻繁に使われた参詣道です。参詣道の途中に熊野神の御子神を祀った王子もしくはその遺跡が点在するのが最大の特徴で、21か所の王子と13ヶ所の茶屋跡などの遺跡が登録資産となっています。
約1800年前に発見されたという日本最古の温泉で、参詣者が参詣前に心身を温泉で清める「湯垢離場」として重要な役割を担ってきました。近くには、古くから参詣者のために道程の目安として建てられた熊野信仰の小さな神社「王子」社の一つ、「湯峯王子」が設けられています。
「熊野本宮大社」から下流の河口部に位置する「熊野速玉大社」までの40㎞が登録資産となっています。中辺路を通り熊野三山を参詣する際、川舟で行き来することが多く、そのため「川の参詣道」として登録されています。
紀伊路のうち、田辺から海岸線に沿って南下し、熊野三山に至る約120㎞の道で、中辺路と比べて距離が長く、奥駈をする修験者や西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道でした。ただし、江戸時代からは、信仰と観光を兼ねた人々の利用が記録されています。本来の姿が良好に保たれている範囲は限られていますが、美しい文化的景観に恵まれた道です。
紀伊半島東岸を通り、伊勢神宮から熊野三山を結ぶ道で総距離は約160km。険阻な山坂の多い道で、随所に石畳が遺されています。伊勢本街道からの分岐点・田丸を起点とし、途中の「花の窟」から海岸沿いに七里御浜を通り熊野速玉大社に至る「七里御浜道」と、内陸部を熊野本宮大社へ向かう「本宮道」に分かれます。
「浜街道」とも呼ばれ、当初は熊野市木本から新宮市までの砂礫の海岸線「七里御浜」沿いを行く経路でしたが、17世紀には防風林が植えられてからは防風林のなかを歩く経路になりましたが、19世紀後半になっても海浜を歩いて向かう旅人もいたようです。沿道には景勝の地として参詣者に知られた「鬼ヶ城」や「獅子岩」があります。
日本書紀にも登場し、日本最古の神社と伝えられています。社殿がなく、ご神体が伊勢路の分岐点に位置する巨岩で、太古の自然崇拝の神社です。
石英粗面岩の岩壁が浪や風の浸食により生み出された伊勢路沿いにある景勝地で、熊野の鬼ヶ城は、数段にわたる階段状の洞窟になり、獅子巌は獅子のような形となっています。江戸時代に作成された旅行案内記には奇景として紹介されています。
紀伊半島中央部を南北に通り、高野山と熊野三山を最短距離で結ぶ参詣道で、熊野参詣道の中でも険しい経路の1つです。
高野参詣道は、空海や、高野山への信仰のため人々が参詣に用いた道で、出発地点に応じて「高野七口」と呼ばれる複数の経路がありました。町石道、黒河道、京大坂道、小辺路、大峰道、有田・龍神道、相ノ浦道の七つの道を指し、町石道、三谷坂、京大坂道不動坂、黒河道の 4 ルートと女人道が世界遺産の参詣道の資産として登録されています。
高野山参詣道のうち、空海が切り開き、その後最もよく使われた道で、沿道には一町(約109m)及び一里(三十六町・約4km)ごとに金剛峯寺の中心である壇上伽藍からの距離を刻んだ町石(石製道標)が建てられています。町石は、単なる道標ではなく、町石自体が一体の仏を表し、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子が伺えます。
三谷坂は、丹生酒殿神社から丹生都比売神社に登る参道で、慈尊院を起点とする町石道よりも距離が短く、短時間での高野山への参詣が可能です。
山麓の紀ノ川沿いから高野山へ向かう参詣道の中で、便利で安全、かつ早く登ることができるため、多くの参詣客で賑わいました。
江戸時代に交通の要衝であった橋本から高野山へ向かう最短経路で、山麓の紀ノ川沿いから女人道の子継峠に合流するまでの経路です。高低差が激しいため時間のかかるルートです。
1872年まで高野山境内には女性は立ち入ることができませんでした。そのため外周に設けられた各女人堂を巡り山内を拝したことから、女人堂巡りの道が成立しました。女人道は女人堂巡りの道に加えて、高野山境内の外周にあたる奥院背後の高野三山頂上に祀られる菩薩像の巡拝道を含みます。