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北海道各地の他府県由来の地名に移住者のルーツを探ってみよう

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かつて日本全国から北海道にやってきた人々の名残として北海道各地には他府県由来の地名がいくつかあります。そこで、北海道に残る郷土の地名とそのルーツを探ってみました。

檜山地方の他府県由来の地名

北海道久遠郡せたな町北檜山区徳島(徳島)

北海道久遠郡せたな町北檜山区愛知(愛知)

北海道久遠郡せたな町北檜山区若松(福島県の若松)

1884年(明治17年)にはじまった農村地域の本格的な開拓による入植。

明治17(1884)年、徳島県から大東伊太郎を団体長とする瀬棚団体21戸80人が兜野地区に入植したのをはじめに、明治25(1892)年には丹羽五郎を中心とした福島県からの集団入植があり、農業を主体とする開拓が行われました。せたな町は徳島県、愛知県、福島県などからの入植者が多い地域のため、徳島、愛知、若松(会津若松)などといった縁のある地名があるのでしょう。

空知地方の他府県由来の地名

新十津川町(奈良県吉野郡の十津川村) 

1889年(明治22年)十津川団体

明治22年8月奈良県吉野郡十津川郷で大水害が発生。十津川村から約640世帯(約2, 600人)が移住し、開墾を始めました。

北海道三笠市岡山(岡山県) 

1883年(明治16年)岡山県人看守人見寿吉等

1882(明治15)年に空知集治監(囚人の収容所施設)が設置され、岡山出身の看守人見寿吉らが集治監用地に払い下げて開墾が始まったようです。

北海道美唄市西美唄町山形(山形県)  

1894(明治27)年 山形団体

山形県村山地方の零細農民が組織した農民移住団体の入植により開墾が始まりました。

北海道岩見沢市岡山町(岡山県)

1885年(明治18年)~1892年(明治24年) 岡山県人

はっきりとした年代は不明ですが、1884~85年(明治17~18年)山口県・鳥取県の他10県から士族277戸、1503人の集団移住がありましたが、その中に岡山県は無いことから、それより後に入植したと思われます。また、明治24年には谷口竹蔵氏が岡山で開墾事業に従事していたようなのでそれ以前に入植したと思われます。

北海道岩見沢市栗沢町岐阜(岐阜県) 

1891年(明治23年)岐阜植民社 ほか

岐阜殖民社農場は、岐阜県人大野亀三郎、脇田静三両氏により、当時の北海道長官永山武四郎氏に面接貸下を申請、翌年認可を受けました。美濃開墾は、殖民社農場創始者大野亀三郎と、岐阜県人小川彦三郎の両氏により始まりました。夕張川沿岸の貸下を受け始まり、後藤開墾は札幌の後藤米七氏が貸下を受けて小作人を入れ開墾に着手したのが始まりです。爾来この三つの農場の開拓も活発に行われ、昭和十五年この年正式に合併し岐阜となりました。

北海道夕張郡由仁町熊本(熊本県) 

1891年(明治24年)熊本団体

1894年(明治27年)春、県下各地より応募した約200人の熊本県人が、雪まだ残る北海道夕張山地の麓に入植し、原生林や熊笹や草のおい茂る未踏の地で、きびしい寒さや幾多の困難と戦いながら開墾していきました。1894年(明治27年)3月から1896年(明治29年)7月までに、熊本からの移民は124戸340人を数えるようになり、1898年(明治31年)には小学校が開設されました。

北海道夕張郡由仁町山形(山形県) 

1897年(明治30年)山形団体入植

山形県東村山郡からの移住者が入植した地です。美唄市西美唄町山形と同じく零細農民による開拓のようです。

後志の他府県由来の地名

北海道虻田郡ニセコ町福井(福井県)  

1896年(明治29年)松岡農場(小作人募集)

福井水害により福井県よる移住が開拓の始りです。

北海道虻田郡倶知安町山梨・北海道虻田郡京極町甲斐(山梨県) 

1908年( 明治40年)山梨団体

明治40年、台風が東海道沖をゆっくり東進、利根川や多摩川、富士川など各地で堤防が決壊し、中でも富士川の被害が甚大で、山梨県を中心に大きな被害が発生しました。水害で被災した山梨県北都留、東山梨、東八代郡など、約3,000人の人々が北海道の南部にある羊蹄山の南麓から北東麓にかけての地域に集団移住をしています。

北海道虻田郡豊浦町山梨(山梨県)

1909年(明治42年)水害被災者

山梨県より弁辺村に106戸移住しました。高台には、移住者の心のよりどころだった山梨神社」が建てられ、1910年(明治43年)に新山梨特別教授場として新山梨小学校が開校しました。

北海道虻田郡喜茂別町福島(福島県)

1911年(明治44年)福島団体入植

大水害を罹災した福島県人89戸400人が団体移住しますがすでに良好な開墾地が残っていなかったため、彼らの多くは程なくして挫折し撤退しました。

北海道余市郡赤井川村山梨(山梨県)

1908年(明治41年)団長幡野氏

北都留郡真木村(現・大月市)の出身の14戸が入植したことが集落の興りであるようです。同時期の山梨県からの入植(京極町甲斐および松川(まつかわ)・倶知安町山梨・豊浦町山梨)と比べ、国や県からの厚い援助はなかったといいます。

釧路の他府県由来の地名

北海道釧路市鳥取(鳥取県)  

1884年(明治17年、18年)旧鳥取士族

明治17年、18年に旧鳥取士族513名が、明治16年に公布された「移住士族取扱規則」により移住しました。

オホーツクの他府県由来の地名

北海道北見市常呂町岐阜(岐阜県)

1897年(明治30年)岐阜集団

根尾川の度重なる氾濫、明治24年の濃尾大地震により、岐阜県揖斐郡稲富村三反畑から移住。岩見沢に移住していた岐阜県出身の林喜太松氏が常呂原野の土地貸与許可を受け、現地に仮小屋を建てて帰り、翌31年5月、岩見沢からの移住者と岐阜県揖斐郡、本巣郡の両郡からの移住者あわせて21戸が家族とともに入地したことに始まります。 

北海道北見市常呂町字土佐(高知県)

1897年(明治30年)北光社移民団及び屯田兵

明治30年から開拓が始まります。小麦・豆類・馬鈴薯といった主食作物の作付けに始まり、明治34年以降から他農作物より高価であったハッカ栽培を積極的に行いました。

北海道常呂郡置戸町秋田(秋田県)

1911年(明治44年、45年)秋田団体

明治41年、42年ウンガの発生や43年の雄物川の洪水により、雄勝郡と旧平鹿郡の64家族182人が開拓団として海を渡りました。現在の常呂郡置土町に移住し秋田集落をつくり開拓を進めていきました。苛酷な北の大地での生活は想像を絶するものでしたが開拓団の心を支えたのは故郷の唄、秋田民謡だったようです。

北海道枝幸郡中頓別町秋田(秋田県)

1912(明治45)年 秋田団体

1911(明治44)年秋田県雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身の柿崎磯治が秋田地区に入植後、秋田県由利郡から集団移民 55 戸(団長斉藤利吉)が入植し、秋田の名がつきました。入植翌年の1913(大正2)年の大凶作で食料が欠乏し、大半が開拓を諦めて郷里へ帰りましたが、残った者は造材人夫として山に入りました。

北海道枝幸郡中頓別町岩手(岩手県)

1912(大正元)年5月 岩手団体

及川末吉、藤倉三次郎、千葉敬一郎、菊池定蔵ら6戸16人が特定地に貸付を受けて、小頓別から北東6kmの原野に入植しました。当時は、頓別川の氾濫が毎年のように起こり悩まされましたが森林資源が豊富だったこともあり、炭焼きでしのいだといいます。1913(大正2)年には三上直太朗、吉田千代吉ら8人が入植し、部落開拓の基礎を作りました。

北海道紋別郡湧別町福島(福島県)

1916年(大正5年)福島団体

東芭露への入植は明治後期から始まり、2本の川沿いに入植しました。彼らのほとんどは、岐阜県・福島県・千葉県からの団体入植で、岐阜団体は上芭露との境近辺に、福島団体は西側の沢に、千葉団体は東側の沢にそれぞれ入植しました。

北海道常呂郡佐呂間町栃木(栃木県)

1911年(明治44年)東日本での大水害の対策

明治43年(1910)8 月、関東地方を中心とした東日本での大水害の対策として政府は北海道移住を呼びかけ、渡良瀬川支川思川下流部に位置する栃木県下都賀郡から66戸210名が応じ、明治44年、現在の北海道常呂郡佐呂間町に入植し、その土地を「栃木」と命名して開墾を進めていきました。

石狩の他府県由来の地名

札幌市手稲山口(山口県)

1881年(明治14年)

開拓地を故郷の地名にちなんで山口村と名づけました。山口地区は元来砂地で、開拓には相当な苦労がありました。それでも開拓を進めた結果、いくつかの作物が取れるようになり、さらに明治末期には稲が取れるようになりました。 1916年以降はスイカの栽培を試みたところ成功を収め、これはのちに「山口スイカ」という呼称で知られるようになり、2006年現在では社会情勢の変化により水田は見られなくなりましたが、それでも山口地区は農業地帯で、山口スイカ改め「サッポロスイカ」は、昭和50年代から栽培されたカボチャ「大浜みやこ」とともに特産品として知られています。

札幌市西区福井(福井県) 

1886年(明治19年)伊藤太治兵衛、鈴木善兵衛

開拓者たちは水田耕作を志したものの、農業用水が不足したため、炭焼きや造材運搬に従事して糊口をしのぎ、1900年(明治33年)以降、炭焼き人の名を冠する「源八の沢」から農業用水を引いましたが、失敗に終わりました。さらにその後、発寒川を水源とすることによってようやく本格的な用水路が完成。1942年(昭和17年)には字名改正が実施され、「福井」という地名はそのまま採用となりました。

北海道北広島市(広島県)

1884年(明治17年)広島県人和田郁次郎等入植

25戸103人の入植が始まり、1894年(明治27年)に自治体の名称を移住者に因んで北海道札幌郡広島村とし、1968年(昭和43年)に町制施行して北海道札幌郡広島町となり、1996年(平成8年)の市制施行の際に広島県広島市と混同することを避けるため、「北広島市」となりました。

胆振の他府県由来の地名

北海道伊達市(宮城県伊達市)

1870年(明治3年)伊達邦成主従入植

戊辰戦争に負けた仙台藩は、その家禄を六十二万石から二十八万石に削封されましたが、亘理伊達家も同様に二万四千石余からわずか五十八石に減らされてしまい、領地は南部藩の支配となりました。このまま亘理の地に住み続けるには南部藩の農民となるしか方法がないと、蝦夷地への移住を決意しました。亘理からの移住者は、二度と故郷に帰らない覚悟で故郷と同じ名前を新しいまちにも付けて、故郷と同じくらい良い町をもう一度作るという大きな夢をもって、明治3年から武士の集団移住は始まりました。

北海道伊達市大滝区宮城町(宮城県)

1907年(明治40年)宝江村団体入植

北海道虻田郡洞爺湖町香川(香川県)

1887年(明治20年)香川団体入植

四国香川県旧財田町の移住者たちにより開拓(入植)されました。主な産業は農業で、恵まれた地質とと気候によって多種で良質の農産物が生産されています。

北海道室蘭市香川町(香川県)

明治25年(1892)2月20日、香川県三豊郡紀伊村(現 観音寺市)から、久保治平一族が、千
舞鼈村(現香川町)に入植し、その後同県からの移住者が増え、明治34年には15戸となりました。 入植者に香川県出身者が多かったためこの地名が付いたようです。

北海道移住の実施

明治新政府では1869年(明治2年)7月に開拓使(のち北海道三県・北海道庁)を設置し、同年8月に蝦夷地を「北海道」と改め政府主導の開発を実施していました。そんな中、明治40年・43年に大規模な水害が発生し、その後北海道への移住が盛んに行われたようです。他にも明治15年の吉野川の氾濫や明治18年徳島県下の大暴風など災害による移住者は数多く存在するようです。他府県の地名のつかない地域でも、たくさんの入植者が北海道各地に移住しています。

災害による移住の例

明治15年吉野川の氾濫により徳島県から瀬棚町共和へ
明治17年の不作、明治18年徳島県下の大暴風により徳島県那賀郡から仁木町へ
明治24年濃尾大地震により三重県から空知郡幌向村(岩見沢市)へ
明治27年富山県小矢部川の洪水により芦別市へ
明治29、30年石川県霊峰白山山麓の白滝での大洪水により石川県より奈井江町白山部落へ
明治26年の千代川・袋川の氾濫や明治29年の洪水により鳥取県より池田町下利別豊頃町牛首別へ

北海道移住の今後

北海道に住むほとんどの人は道外のどこからかの移住者をルーツとしています。子供の頃、お父さん・お母さん・お爺ちゃん・お婆ちゃんはどこの出身か聞いてみるとだいたいが道外の出身でした。昔北海道に移住してきた人は荒れ地を開墾し、この寒さと戦い、どれほどの苦労を重ねてきたか、きっと想像をはるかに超えていたことでしょう。

今は北海道移住を考えたとき、市町村によっては至れり尽くせりの待遇が用意されています。今後も北海道への移住者は増えていくことでしょう。そして、この地に住みたい人を快く迎えられるのは、過去の開拓者のおかげと感謝しつつ、これからも北海道をより良くして、北海道に住みたい人が、気持ちよく移住してこられることを願うばかりです。

 

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